白子川水系と主な湧水池(3)
大泉町と光が丘の湧水池
〈丸山池〉
大泉町3-5の大泉北高等学校(現都立大泉桜高等学校)の校舎付近から東にかけてあった池で、西方は高さ6~7mの高台となり、東方は白子川沿いの低地となっています。この低地一帯はかつての水田地帯で、池の水はこの水田に注ぎ、灌漑(かんがい)に利用されていました。
付近は旧石器、縄文、弥生、奈良、平安の各時代の遺跡地としても知られ、丸山遺跡と呼ばれています。
池の土手には桜が咲き、池から流れ出す水で米を研いだり、食器を洗うなどしていた人もあったといいます。
昭和30年代に釣り堀となり、その後埋められて自動車教習所となって、現在では主に高校の敷地となりました。
〈ひょうたん池〉
大泉町3-22の大泉第一小学校北脇に水路跡があり、これを西にたどったところにひょうたん形の池があったといいます。その形からひょうたん池と呼んでいたそうです。この池の水は東方の白子川沿いの水田灌漑に利用されていました。
〈清水山下の湧水〉
大泉町1-6の清水山と呼ばれているところは、北側に白子川の谷を臨み、この斜面一体はカタクリの自生地として、東京23区では随一の場所と言われています。
現在、清水山憩いの森(現清水山の森)として保存され、区民に親しまれていますが、この大地の下には今なお清水がわき、清流が林の中を流れていく姿がみられます。かつては、この水を利用した水車がかけられていました。
なお、この東方、稲荷山下にも湧水池があり、今日なお豊かな景観を残しています。
〈お玉が池〉
旭町3-5の豊渓中学校の北側から東側にかけての谷間に水路跡が残っていますが、これを南にたどると光が丘四丁目の公園に達します。この公園側に古くは池があり、明治9年の下土支田村『明細書上帳』に「於玉が池」とあって、「東西十一間南北二十一間周囲六十六間、村ノ東北ノ方ニアリ、村ノ用水トナリ、終(つい)ニ土支田川ニ入ル」と記され、また明治7年の『東京府志料』には「御玉ケ池」として「周囲凡(およそ)六十間許(ばかり)、此池小ナレトモ水涌沸(ゆうふつ)シテ土支田川ニ合流シ荒川ニ入ル」と記されています。
兎月園(とげつえん)
このお玉が池の北、現在の豊渓中学校の付近には、大正13年に「兎月園」という遊園地ができました。
敷地10,000坪(約3.3ha)の中に、小動物園、運動場、花園、浴場などのほか、映画(活動)館や料亭、茶屋もあり、またお玉が池から流れる水を利用した池にはボートが浮かび、周囲には桜が植えられていました。運動場では、当時としては珍しい自転車に乗る若者たちが集まり、競争をしていたといいます。
今、三宝寺に残されている勝海舟の屋敷のものと伝えられる長屋門も、一時期この兎月園正門として使われていました。
東武東上線沿線の遊園地として開発されたこの兎月園は、入園料を取ることもなく、休日には東京市域や周辺の人たちでにぎわい、都市郊外の行楽地として発展するかにみえましたが、間もなく始まった太平洋戦争で営業も思うように任せず、昭和17、18年頃、閉園という運命をたどっています。
大泉の窪地
以上、主に自然の湧水池について触れてきましたが、これらのほかに、大泉地域には土地の窪(くぼ)んだところが多く、旧地名に「窪(久保)」の名がつく場所が随所にみられ、こうしたところには雨水などがたまり、付近にはこの水を流した水路と思われるものがあります。大泉学園町五丁目関越自動車道の所は古くは「少納言久保」といわれ、ここも窪地の一つですが、これより関越道北側に東方を流れる白子川に続く谷がみられます。文献の上には全く登場しませんが、この周囲に遺跡も発掘されており、あるいはこれも古くは白子川の支流であったかもしれません。
白子川水系の湧水池については、文献に見られないものも多く、区民の皆さんのご教示を参考にさせていただきました。
昭和63年5月21日号区報
写真(上):清水山の森の湧水 平成31年
写真(下):兎月園池畔(兎月園絵葉書)
◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。