白子川水系と主な湧水池(1)
<明治・大正頃の姿>
明治13年測量の参謀本部「迅速測図」などを基に、明治・大正頃の白子川の姿を復元してみると、下図のようなものになります。
保谷市(現西東京市)方面から来ている水路は南北とも一条の川です。しかし、井頭池から北東に向かうものは、本流から分かれた用水が一条あるいは二条、本流に寄り沿うように延びています。かつて、この用水と本流の間に、水田が作られていました。板橋区や和光市の低地部では、さらに多くの用水を分けて、一帯の水田地帯を形成していました。
川幅は、江戸時代末頃の『新編武蔵風土記稿』によると、上流の土支田村、小榑(こぐれ)村で2間(約3.6m)ばかり、中流の下白子村では本流が6間余(約10.8m)、支流が2間ばかりとなっています。
白子川沿いには、井頭池をはじめ、多くの湧水池が見られました。以下、その主なものについて、紹介しておきます。
<井頭池の弁天様>
井頭池は、東大泉7-34の現大泉井頭公園地内にあった池で、『新編武蔵風土記稿』にもその挿絵が載っており、これによると中央部のくびれたひょうたん形をしています。また、大正11年の「大泉村全図」には、東西の幅20mで南北200数十mに及ぶ細長い池が描かれています。江戸時代の「土支田村明細帳」には、その広さが3反歩(約30a)ほどと記されています。
先の『新編武蔵風土記稿』には、この池の中島に弁天社が建っていたことが載っています。この内容は、つぎのとおりです。昔、村の子どもがこの池の魚を捕ったところ、たちまちたたりがあったことから、妙福寺の住持、日忠聖人(にっちゅうしょうにん)に頼み弁天のほこらを勧請(かんじょう)しました。これが貞享(じょうきょう 1684~88)の頃といわれるけれども、それ以前の正保(1644~48)の頃の絵図にはすでに、ここにほこらが見られることから、一度廃された後に再建されたのだろうといい、さらに今(1810~28年頃)はまた廃されて名のみを残している、としています。
時代は下って、現在の土地の古老の中には戦前の井頭池の中州に石の弁天が祠(まつ)られていたのを覚えておられる方がいて、この弁天はいつの頃かだれかに持ち去られたらしいと、語っています。
俗にここの弁天社はよく火が出て焼けたところから、「焼け弁天」と言われたとの伝承もあり、作られては廃され、時々焼かれたあげくさらわれてしまったのでは、弁天さまもたまったものではありません。
戦前この弁天社の背後には、枯れて白い肌を現わしたご神木と3本の川柳が立っていて、その根元付近から、もくもくと豊かな清水が湧き出していたと伝えられています。今なお、公園の中に生き続けている太い木が、当時からの川柳です。(※)
<火之橋は樋の橋?>
また、今の火之橋のところには、以前には堰(せき)があり、池から流れ出す水の水位を上げて両側にあった用水路に流し、北にある水田灌漑(かんがい)に利用していました。堰の上には木を渡し、橋の代用をしたと伝え、この橋を通称「ひの橋」あるいは「溜(ため)の橋」と呼んだのが、コンクリートの橋に変わり、その名も「火之橋」と付けられました。しかし、その歴史的な役割を考慮すればむしろ「樋(ひ)の橋」とするべきところではなかったかと、地元の方は語っておられます。
(※)現在2本あり、「ねりまの名木」に指定されているマルバヤナギのことです。
昭和63年1月21日号区報
写真(上):大泉井頭公園 平成29年
写真(下):大泉井頭公園のマルバヤナギ(ねりまの名木) 平成29年
◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。