田柄用水暗きょへ

ねりまの川

<用水と成増飛行場>

 水田灌漑(かんがい)や野菜洗いはもちろん、水車の原動力、さらには防火用水としても利用されたといわれる田柄用水の歴史にも、第二次世界大戦は暗い影を落としました。
 昭和17年4月18日、突然東京上空に米軍の爆撃機B25が飛来し、爆弾を投下して姿を消しました。開戦間もない時期でのこの空襲は、当時の政府を慌てさせ、帝都防空のための飛行場建設計画が進められました。その対象となったのが、現光が丘一帯の地域でした。
 昭和18年夏までに、地域の住民に立ち退きが命じられ、この年には成増飛行場として完成をみました。この飛行場建設に伴い、当地の畑をはじめ、田柄川沿いにあった水田もつぶされ、用水は暗きょとなり、数流あった自然の川も埋め立てられました。また、その後の空襲により、田柄用水は上流部でも水路破損を招き、ついに水が通わない状況ともなりました。

<水害の元凶>

 戦後、成増飛行場は米軍家族宿舎「グラントハイツ」となり、田柄用水にも再び水が流れるようになりました。しかし、これを受け入れる水田は旧に復することはなく、その歴史を閉じることとなりました。

 既に戦前から、水田をあきらめ畑作としたり、あるいは宅地とする計画が立てられ(昭和7年以降、現北町から錦にかけて耕地整理、区画整理が行われる)、戦後に東武練馬からグラントハイツへの引き込み線用地として買収されたところも、多くはかつての水田でした。
 その後は、戦後の住宅ラッシュのあおりを受けて、旧水田地域にもどんどん家が建ち、これが後々、水害を招く結果につながっています。
 本来の目的を失った用水や川は豪雨の度に水害をもたらし、あるいは衛生上の問題を投げかける元凶となり、「やっかい堀」といわれる嫌われものと化しました。かつては、増水時の水溜(みずため)の役割をした田畑の代わりに低地に建つ家々に、これらの水が押し寄せることとなったのです。特に、昭和33年9月の狩野川台風時の被害はその後の水害対策上大きな教訓を残しました。

<田柄川も暗きょへ>

 狩野川台風の被害をみて、東京の中小河川改修への動きは活発となりました。このころには用水の利用組合も解消され、用水には生活廃水が流れ込むことともなりました。そして、下水道整備問題も大きな世論の対象となっていました。
 こうした気運の中で、昭和40年頃に、富士街道沿いの用水の暗きょ化工事が進められることとなりました(石神井庁舎前付近は、それ以前に暗きょ)。さらに、用水から南の石神井川に向う放水路を数か所に埋設し、水害対策としました。また、富士街道から下流の用水にも、コンクリートふたかけや道路下埋設が行われています。
 一方、光が丘東方の田柄川は昭和39年に護岸工事が施されています。その後、この川は下水道幹線として利用されることとなり、46年9月から工事が開始されるとともに、次第に川そのものは地表から姿を消していきます。現在、その上部は緑道として整備され、区民の散歩道となっています。

田柄用水暗きょへ

田柄用水は、今回で終了します。次回からは、白子川を始めます。

昭和62年11月21日号区報
写真上:狩野川台風で浸水したグラントハイツの建物   昭和33年
写真中:暗きょになった田柄用水(土支田二丁目付近)  昭和60年頃
写真下(左):田柄川暗きょ化工事(錦一丁目)  昭和54年頃
写真下(右):田柄川緑道(錦一丁目 円明院前)  平成29年

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。