田柄用水-水田利用の形

ねりまの川

<水田所在地>

 田柄用水の開発に当たっては、田無村がリーダーとなり、東方の村々9か村を誘って事業を行ったことが、埼玉県行政文書(「保谷市史」所収)にも記されています。このとき、灌漑(かんがい)用として見込まれた村々の水田面積の合計は、約80町5反歩(約79.8ha)でした。
 これらの水田所在地は、大きく2か所に分けられます。一つは、田無市(現西東京市)域から下流の石神井川沿いに広がる水田で、約60余町歩。もう一つが、練馬区域北東の田柄川沿いで、こちらは16町歩。細かく見れば、このほかに、田無市本町(現西東京市田無町)3-5付近、保谷市本町(現西東京市保谷町)5-16付近などの用水流域にわずかな水田が見られましたが、主要な水田地帯は、石神井川および田柄川流域の谷間に絞られるようです。

<石神井川流域の水田灌漑> 

 田無、上保谷、関、上石神井、下石神井、田中、谷原の7か村(後に谷原村は組合を抜ける)は、いずれも石神井川沿いに水田をもつ村々でした。これらの水田には、富士街道に沿って東に向かう田柄用水そのものから分水を受けた様子はほとんどなく、古くからの田無用水を通じて、青梅街道から南に流れる水を田無市(現西東京市)域から引いて利用したことがうかがわれます。
 明治8年の「武蔵国郡村誌(むさしのくにぐんそんし)」には、保谷市(現西東京市)域の石神井川に沿う水路と思われる「柳沢用水」の名が記されています。この用水が、下流の村々への分水の役割を果たしていたものと推定されます。

<田柄川沿いの水田>

 田柄用水そのものは、下土支田・上練馬・下練馬の3か村を流れる田柄川沿いの水田に大きな影響を与えました。
 ところで、この田柄川沿いの水田は、既に江戸時代からあったことが知られています。安政6年(1859)の上練馬村絵図には、現在の田柄一丁目付近にわずかな水田が描かれ、下練馬村絵図(下図)には、現在の北町地域と推定される川沿いに帯状の水田が見られます。
 また、この下練馬村絵図には、上練馬村境(現北町八丁目の南西付近)にかなり大きな池が描かれ、「溜井」と記されています。これは、文化11年(1814)以降に刊行された地誌「遊歴雑記」に「練馬下田柄村の池」と紹介されているものに符合します。この池は、広さおよそ1町(約109m)四方で、元来は近郷の用水にするために掘り、設けられたとあります。
 この地域は、一般に水利に恵まれず、天水(雨水など)を利用したと伝えられています。実際に、土支田から光が丘一帯の付近にはその天水を流した自然の水路があり、これらが田柄川を形成する源となったようです。
 とはいえ、田柄川の谷はかなり発達しており、その最も西の先端は、ゆるやかな起伏ですが、土支田三丁目付近までさかのぼれます。土支田地域の水路は、田柄用水の一部とされていますが、それ以前にも自然の水路として存在していたことは、明治2年と推定される土支田村の絵図に描かれていることからも分かります。
 要するに、土支田から下流には既に江戸時代から自然の水路とともに水田灌漑用の水路が併存していたものと思われ、明治4年の田柄用水開発に伴い、これら水路が整備され直したのではないかと推測されます。
 それはともかく、明治44年発行の1万分の1地形図には、現光が丘西端に当たる地域まで水田地帯が広がっていることから、田柄用水の効果は図上にもはっきり現れているように思われます。

田柄用水-水田利用の形

昭和62年8月21日号区報
写真:下練馬村絵図(上部が南で下の流れは田柄川) 江戸期(年代不詳) 石神井公園ふるさと文化館所蔵

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。