田柄用水の開発

ねりまの川

<田柄用水の拡張>

 明治3年、玉川上水に船を通して、上流から淀橋まで物資輸送するという計画が起こりました(輸送は、明治5年5月で中止)。このため、玉川上水から直接水を引いていた各分水口は廃止され、代わって上水に沿う「新堀用水」が現小平市中島町の西方(東京都水道局小平監視所)から引かれ、以後はこの分水から各村に水を分けることとなりました。
 その際、政府は各村の用水利用状況の把握に努めたようですが、こうした中で村々からは盛んに増水願いが出されています。田無、上保谷、関、上石神井、下石神井、谷原、田中、下土支田、上練馬、下練馬の10か村(後、谷原村が抜ける)による、田無用水の拡張願いもその一つでした。
 田無用水は、元禄期(1688~1704)に玉川上水から田無まで引かれた分水で、現田無市内(現在の西東京市)の青梅街道に沿って東に流れ、流末は石神井川に落ちていました。
 拡張願いは、これをさらに保谷から練馬の地域へ延長して欲しいというものだったのです。
 土支田の小島家に残る、明治4年正月の増水計画についての文書には、水路延長で各村の水田面積が増えることは、すなわち、政府に差し出す税金が増えることになるとの趣旨が記してあり、政府から許可を得るための必死の思いが伝わってくるようです。
 各村で見込まれた水田拡張面積は、つぎのようなものでした。

   田無村=25町歩(在来分を含む)、上保谷村=25町歩(在来分を含む)、関村=1町歩、上石神井村=2町5反歩、
   下石神井村=7町歩、田中村=4町歩、下土支田村=9町歩、上練馬村=3町歩、下練馬村=4町歩
   ※1町は約0.99ha、1反は約9.92a

 水路の延長工事は、明治4年5月(4月25日とも言われています)には、一応の完成を見たといいます。工事費用は各村々が分担して受け持つというのが、当時の実情でした。人件費そのほか、費用の合計は、1,350両ほどであったことが記録に見られます。
 水路の名称は、初め、玉川上水の北側に作られた新堀用水からの分水一般に使われていた「玉川上水北側新井筋分水」と記されていましたが、後に「田柄田用水」、さらに「田柄用水」と呼ばれることとなりました。

<増水への努力> 

 こうして、田柄用水は、ともかく完成を見ました。しかし、当初の予定通りの成果は得られませんでした。特に、下流に当たる下土支田村には期待するほどの水が届かず、このままでは水路を築いた努力も空しくなるので、増水などの善処を願いたい、との嘆願が行われています。
 加えて、明治10年には東京への飲料水が不足したため、玉川上水からの引水に50%の制限が実施されました。このため、下土支田村では、やむなく、もと通りの天水(雨水)に頼りながら、この後も何度かの増水願いを繰り返しています。明治15年には田中村から規定外の水を回してもらったり、また同じ時期に下流の上練馬村、下練馬村との間に水利用の協定を結ぶなど、水確保の努力が続けられました。
 こうした努力が報われることとなったのは、石神井川の下流、板橋や王子に火薬製造所、王子製紙、大蔵省印刷局抄紙部などの大規模工場ができ、これらの工場用水に田柄用水の水が注目されてからでした。これらの工場は、初め、千川上水や石神井川の水を利用していましたが、それだけでは足りず、田柄用水系統の増水を願い、上流の小平市域各用水の流末を田柄用水に引き込む働きかけをしました。
 こうした中で、明治26年には大幅な増水計画が実り、田柄用水沿いの村をはじめ、王子製紙などの工場、さらに王子村ほか22か村の間に、水利用の契約書が取り交わされています。
 このようにして、土支田、田柄地域にもようやく豊かな水が流れることとなり、これを記念して、明治26年11月、田柄用水沿いに、水神を祀(まつ)る記念碑が造られました(現在は、田柄四丁目の天祖神社に所在)。

田柄用水の開発

昭和62年7月21日号区報
写真上:田柄用水(石神井台二丁目付近)(昭和40年)
写真下:田柄天祖神社にある田柄用水記念碑(水神宮碑)(令和4年)

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。