千川上水の歴史

ねりまの川

 今回から、千川上水について掲載します。
 千川上水は、関町南四丁目の南側の武蔵野市内を通って立野町の北側から練馬区内に入ります。この青梅街道までの部分は、現在、かれ川として残っていて、昭和63年春には、玉川上水の水を通すように、工事が行われています(※1)。
 この先は暗きょ化され、千川上水緑道を経て上石神井一丁目の南を東へ向かい、上井草駅西側で西武新宿線を北へ越えます。ここから補助229号線の拡幅に利用され、富士見台駅から江古田駅まで、西武池袋線の南側を通っています。通称千川通りと言われ、所々に桜並木も残っています。

<水に乏しい江戸>

 関東を領有した徳川家康は、江戸を拠点に一大城下町づくりに努めました。当時、江戸には飲料水に適した水が乏しく、このため天正18年(1590)には神田上水を造らせました(完成は寛永年間-1624~1643-とされる)。
 しかし、江戸への人口流入は著しく、なお水不足が深刻であったことから、承応年間(1652~55)には多摩川の水を羽村から分けて玉川上水の開さくを行いました。この玉川上水からは後に多くの枝川が分水されますが、その内上水(飲料水)の役割からも最も重視されたものに千川上水がありました。

<千川上水の開発>

 千川上水は元禄9年(1696)、玉川上水を現在の保谷・武蔵野両市境で分水したものです(※2)。北の石神井川と南の妙正寺-善福寺川系の分水界上をぬって練馬から板橋を抜け、巣鴨まで開渠(かいきょ=素掘り)とし、それから先を木樋(木管-土中埋設)で江戸までつないでいました。



 設計は水利の第一人者河村瑞賢が行ったともいわれ、施工請負は一般に多摩郡仙川村(現調布市仙川町)出身といわれる徳兵衛(一説に常陸の出身で、千川家に入夫)、太兵衛の両名で、道奉行伊勢平八郎の監督の下に工事に当たりました。このとき、当初予定されていた幕府費用だけでは間に合わず、480両余を自前で出資したと伝えています。
 こうした功により、後に両名には千川の姓が与えられ、名字帯刀が許されることとなり、また併せて千川水路取締役を拝命して、上水の管理を任され、水使用料徴収の権利を得ました。

<水の利用>

 千川上水は、はじめ将軍お成りの小石川白山御殿、湯島聖堂、上野寛永寺および浅草寺への給水を主な目的とし、その周辺の武家屋敷や町家への飲料水にも利用されていました。宝永4年(1707)には川沿いの村々から出された灌漑(かんがい)用水への利用願いが許可され、多摩郡6か村、豊島郡14か村に分水が引かれることになりました。
 その後、江戸への上水としては享保7年(1722)に一度、さらに天明6年(1786)に再度の廃止をみて、むしろ水田灌漑面に大きな役割を果たしながら幕末を迎えています。練馬区域では石神井川や中新井川沿いの水田に多大な恩恵を与えています。

<千川水道会社の設立>

 幕末から明治にかけて、千川上水の水は滝野川の反射炉(慶応元年着工、中断)や王子の抄紙会社(明治6年設立-後の王子製紙)、板橋の火薬製造所(同6年、旧金沢藩敷地内)などの工業用水として利用され始めました。明治13年には、岩崎弥太郎(三菱の創始者)の立案で千川水道会社が設立されました。これは明治40年、東京市に近代水道が引かれるまで存続しました(同41年4月解散)。
 その後、千川上水の水は大蔵省や都水道局、あるいは六義園の池水などとして利用されていましたが、昭和43年の都営地下鉄工事で六義園への水路が中断され、45年には都水道局が取水を中止、さらに46年には大蔵省が工業用水道に切り替えたため、事実上、千川上水の水利用の歴史に終止符が打たれました。

千川上水の歴史

(※1)青梅街道までの部分は、開きょで昔の姿を残し、平成元年3月には、すでに復活した玉川上水から水が引かれ、清流がよみがえっています。
(※2)保谷市は平成13年1月21日に田無市と合併し、現在、西東京市になっています。

昭和62年1月21日号区報
写真上:千川家代々の墓(昭和20年代 北町二丁目阿弥陀堂墓地内)
写真下:千川上水の流れ(昭和31年 上井草駅付近)

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。