移り変わる石神井川

ねりまの川

<役割を失った川>

 石神井川が流域に住む人々に与えた恩恵は、多大なものでした。しかし、時代の流れの中で流域の水田や水車が失われるにつれ、人々は石神井川の水を期待しなくても済むようになりました。こうして長い間人の生活を支えてきた川からその役割が失われ、新たな人と川との歴史が始まることとなりました。
 明治、大正を通じて人口が増え続けていた東京を、大正12年9月1日、関東大震災が襲いました。これがきっかけとなり、現練馬区域にも市街地から移住してくる人が増え、特に東側では、数年の間に2~3倍の人口増加をみました。
 昭和7年、練馬の区域が東京市に編入されることとなり、この前後から石神井川流域でも耕地整理や区画整理が開始されました。以後、戦後の昭和30年頃までに流域の水田は畑となり、あるいは住宅となって、川も直線化され、風景も変わりました。

<川の反抗> 

 練馬一丁目にお住いの光居洋子さん(昭和16年生まれ)のお便りには、子どものころの石神井川(練馬二丁目付近)の様子が語られています。
 「川底には藻が生え、フナやクチボソ、ザリガニなどがすみ、これらを網ですくって遊びました。またシジミもたくさんいて、アルミの弁当箱に採って家へ帰りました」
 こうした川沿いにも、昭和30年代から40年代にかけて住宅が急増しました。この間、下水道など都市設備の整備は大幅に遅れ、このため家庭排水や工場廃水は川に流れ込む一方となり、さまざまな弊害をもたらしました。昭和30年頃から、石神井川で魚が釣れなくなったといいます。これに不審をもった開進第二中の理科部員生徒たちは、35年から先生の指導で川の水質調査を行いました。このことが新聞に報じられています。
 また、豪雨時には必ず水があふれ、諸所に水浸被害が続出しました。特に昭和33年の狩野川台風時には、浸水家屋31,000世帯を数えています。まさに、人から見捨てられた川の反抗といえなくもありません。決して、人の身勝手のままになってはいなかったのです。

移り変わる石神井川

<川の復活へ>

 狩野川台風をきっかけに、都では中小河川の改修に本腰を入れ、石神井川も第一次改修(30㎜改修=1時間当たり30㎜の雨に耐えられるようにすること)から、今日では第二次の本改修(50㎜改修)に進んでいます。一方区では、昭和46年から川の水質を定期的に調査し、汚れの原因を調べてきました。その第一には、家庭から流れる洗濯や食器洗い、ふろ、トイレなどの排水が上げられています。
 こうした状況も昭和50年代から60年代にかけて下水道が普及し、次第に解消される方向に向かっています。今日では、清流の復活とともに、水に親しむ環境づくりに大きな関心が寄せられるようになりました。
 昭和59年7月、石神井川に1,000匹のコイが放流され、その生存が可能なことが確認されました。さらに61年6月にも放流が行われる一方、この年3月には、湿化味橋下流にブロックを使って魚の巣づくり(魚巣ブロック)も行われています。
 このように、石神井川の復活に向けての動きは活発になっています。南田中五丁目の南田中橋周辺には、緑道が作られています。また、白子川流域でも、東大泉七丁目の大泉井頭公園は、湧水(ゆうすい)を利用して水に親しめるように改修されました。しかし、都市化された川に対して、どのように人はかかわっていくのかどうかなど、今後の課題は少なくありません。

移り変わる石神井川

石神井川は今回で終了し、次回からは千川上水を5回の予定で連載します。

昭和61年12月21日号区報
写真上:自然に蛇行していた石神井川(昭和32年 南田中の山下橋と長光寺橋との中ほど)
写真下:山下橋から見た石神井川(平成8年)

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。