豊島氏と石神井川
<豊島氏、石神井に進出>
関東武士団のうち、秩父氏は荒川や旧入間川(下流部は現隅田川)沿岸付近に進出し、勢力を広げました。
『新編武蔵風土記稿』によると、秩父武常(たけつね)は豊島氏の祖とされ、その子近義(※1)は八幡太郎源義家につかえて奥羽東征に従いました。また、近義の弟常家の孫清光は源頼朝挙兵(1180年)に際し、大いに活躍した人物と伝えられていますが、このころの本拠地は現在の北区の清光寺(豊島七丁目)、あるいは平塚神社(上中里一丁目)付近の地と考えられています。
南北朝時代、豊島家は宗朝(むねとも)を一族の宮城(みやぎ)氏から養子として迎え、このとき宮城氏の所領石神井郷も豊島氏が引き継ぐこととなりました(『豊島宮城文書』)。
宗朝の曽祖父は宇多重弘といい、彼が娘箱伊豆(はこいず)に石神井の地を譲ったのは弘安5年(1282)のことで、箱伊豆は宗朝の祖母にあたります。
(※1)『新編武蔵風土記稿』が掲載する史料は必ずしも史実とはいえず、近義は実在せず、豊島と名乗ったのは武恒(常)の孫の康家(清光の父)と考えられています。
<豊島氏と水田利用>
豊島氏が太田道灌と戦って敗れた文明9年(1477)の頃には、当主勘解由左衛門尉(豊島氏系図では泰経(やすつね))は石神井城を拠点とし、練馬城も合わせもっていました。さらに平塚城(北区上中里一丁目)も拠点であったと考えられます。豊島氏の領有した地域は旧入間川の現、北区付近、後には石神井川をさかのぼる地域であったことが分かります。豊島氏が活躍した時代の水田に利用された水系が石神井川で、その水源は近代まで三宝寺池とされ、従って三宝寺池までを掌中にしようとした豊島氏の動きはむしろ当然といえます。
練馬区域には石神井川の支流となる湧水池(ゆうすいち)が多く発達し、そこにできた小さな谷間には早くから水田が作られ、古代人が住みつく条件を備えていました。こうした先住民の地に勢力を伸ばしたのが豊島一族ということになりそうです。そして、川の源流(三宝寺池)には城が築かれており、恐らく水路管理上重要な役割を果たしていたものと思われます。
<太田道灌に敗れる>
関東動乱の中で豊島氏は、上杉氏の重臣として頭角を現してきた太田道灌を敵とし、事を構えることとなりますが、道灌はすでに康正2年(1456)から翌年にかけて江戸城を築き、一方の本拠地川越(現埼玉県川越市郭町二丁目)を結ぶ勢力の拡張に努めています。また、荒川区南千住付近にあったという石浜城(※2)や板橋区赤塚五丁目の赤塚城は道灌方の千葉氏に固められており、このころの豊島氏は南北から相当の圧迫を受けていたものと思われます。
このため、後述する江古田・沼袋の合戦は豊島氏にとって乾坤一擲(けんこんいってき)、文字通り最後の浮沈をかけた一戦であったに違いありません。
文明5年(1473)の長尾家の跡目争いがきっかけとなり、豊島氏は主家上杉家に背いた長尾景春に味方し、太田道灌との間は急速に険悪なものとなりました。
豊島氏は石神井、練馬などの城を固め、道灌の連絡網を断とうとするなど、対抗の構えを見せました。これを見た道灌は文明9年(1477)4月13日、練馬城の豊島平右衛門尉(勘解由左衛門尉の弟、系図では泰明(やすあき))を攻め、城外に火を放ち一度引き揚げますが、この知らせを受けた石神井城の勘解由左衛門尉は道灌の本拠江戸城に向けて出撃します。しかし道灌は素早くこれを察知し、現、中野区の江古田・沼袋付近に迎え撃ち、豊島方は大敗を喫するのです。
練馬城から馳(は)せ参じた平右衛門尉はここで討たれ、兄の勘解由左衛門尉は石神井城まで逃れ、ここに立てこもった後、ついに総攻撃を受けて落城しました。この時勘解由左衛門尉と娘照姫は三宝寺池に身を投じたとの話が語られることになりました。また、一説には勘解由左衛門尉はいったん平塚城に逃れた後、ここも翌年道灌の手に落ち、さらに小机城(神奈川県横浜市港北区小机町)に入って包囲され、これを最後に消息を絶ったといわれます。
(※2)石浜城の千葉氏は、その後、太田道灌と対立する。
昭和61年11月21日号区報
写真:長光寺橋付近から見た石神井川と南田中の水田(昭和28年)
◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。