石神井川の利用
<流域の村と水田>
武蔵野台地から湧き出す水を集めて流れる川は、いずれも規模としては小さく、練馬区で最大の石神井川もまた中小河川の一本にすぎません。
しかし、この石神井川水系の水は『新編武蔵風土記稿(1810~1828年)』の内容からすれば、少なくとも現在の練馬・板橋・北・荒川・台東各区域で旧40か村の用水として利用されていました。
その利用目的の中心は水田の灌漑(かんがい)でしたが、この40か村の範囲に推定される水田の面積は『東京府志料(明治7年)』によれば1,061町歩余(約1,050ha)、米収量は14,350石余(約2,150t)となります。これらの水田には必ずしも石神井川だけでなく、千川上水などの水も引かれているため、水系別に分けて考えることははじめから無理もありますが、石神井川沿いの水田として理解すれば、この川の果たした役割がおよそ見当がつきます。ちなみにこの地域の戸数は、明治7年時点で8,526戸(すべてが水田所有者ということではなく)でした。
<区内の村と水田>
しかし水田の多くは旧荒川(隅田川)に沿う低地帯に集中し、練馬区域などの上流部では地形上川の両側や支流の谷間を利用することとなり、このため地域での水田の割合は小さくなります。
本区内で石神井川の水を利用していた村々(明治22年までの区画)と、用水利用状況は表のとおりです。
もっとも、この練馬区域の村々の水田も石神井川以外の水系から補助水を受けるなどしており、その様子も、表中「用水」の欄に記しておきました。「千川」は千川上水の分水、「新川」あるいは「玉川分水新川」とあるのは田柄用水で、上練馬・下練馬両村には田柄川沿いにも水田があり、上練馬村の「玉川分水新川」はそれを指すと思われます。
戸数は各村全体のものですが、便宜上、この戸数で水田面積と米収量を割ってみますと、面積で9畝(約9a)、収量で1石弱(150㎏)。ここで先の40か村全体の数値を出してみますと、1戸当たり面積で1反2畝(約12a)、収量で1石7斗(約250㎏)となって、区内の村々が水田耕作上相当に不利な立場にあったことがわかります。
<水争い>
このように水田には限界があった練馬区域の村々では畑作物に工夫をこらし、その結果練馬大根という特産物を産み出すこととなったのは広く知られるとおりです。
とはいえ、本来、農民にとって最も有利な作物というのはやはり米であり、米を作るためには水が欠かせません。この水は川を通して流れて来るもので、川の流域にはいくつかの村があり、従って川の水はこの村々の共有の財産でありました。そこでお互いにこれを公平に利用するための取り決めが行われていましたが、時には水利用上の利害関係が衝突し、水争いを引き起こすことも少なくありません。
石神井川については、田無村にあった水車(流末で石神井川に落ちる田無用水に建設)から流れて来る水が下流の水田に悪影響を及ぼすとの理由から区内の村々が訴えを起こした天明2年(1782)の争いが知られています。
昭和61年10月21日号区報
写真:田植え(中村橋)(昭和28年)
◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。