弘法大師 池をつくる  石神井川水系の伝説(2)

ねりまの川

<貫井の名の由来>

 谷原交差点南側は、石神井川が大きく曲がるところ、かつて水勢が崖を削り、その結果低地帯の幅が増したところで、水田の奥行きも区内では、1、2番目に広い地域でした。
 この崖下の一角に湧水池(ゆうすいち)があり、石造りの蛇体弁天(じゃたいべんてん)が祀(まつ)られていました(現在、池付近は住宅地となり、駐車場の一角に弁天の小祠<高野台2-27>が残されています)。人々は、この池を「つきの井」と呼んでいました。
 この池には、かつて弘法大師が通りかかったとき、水不足に悩む農民の姿を見かね、手にした杖(あるいは筆)でここを突いたところ、水が湧き出したという伝説があります。これが、「つきの井」の名の由来といわれています。

 これとよく似たつぎのような話が、貫井にあった池にも伝えられています。大正7年刊の『東京府北豊島郡誌』に「上練馬字向貫井にあり、面積七町歩、但(ただし)現今は、全部開墾して、池の中心出頭(でがしら)と称する個所を存するのみなり、出頭は昔村民の旱魃(かんばつ)に泣けるを見て、弘法大師の持てる杖にて穿(うが)ちたる泉なりと伝ふ、貫井の地名もまた此(これ)より起れるよし里人は語れり、此辺古跡あるにや土器石器の発掘さるゝもの多し」とあります。
 その池は現在の貫井1-22、貫井中学校の南側住宅地にあたり、かつてはこれより西方から流れてきていた小川(水源は、現在の、石神井消防署<下石神井5-16-8>西側付近と、富士見台2-17付近とにそれぞれ推定され、すずしろ園<現貫井福祉園 貫井2-16-12>脇で合流。大半が遊歩道)が接していました。また、円光院(貫井5-7)南側から石神井川にかけてあった水田の水の供給源でもありました。
 その昔、この池の付近にあったといわれる水神宮が、現在は、円光院東脇(貫井5-4)に移されています。

<のりぬまの駅がねりまの名の発祥?> 

 貫井から練馬にかけての地域は石神井川の支流が数本集中していて、それぞれの水路沿いには、水田が開け、川の南岸に練馬城(旧としまえん、現在の都立練馬城址公園内)が築かれ、開進第二中学校(練馬2-27-28)付近には栗山(旧地名)の砦があったともいわれているところで、中世頃には相当に重視されていたもののようです。一説には、古代の「乗瀦(のりぬま、あるいはあまぬま)」の駅があったところとの推定もされ、これを「のりぬま」と読んでねりまの地名の発祥とする向きもあるくらいです。
 これらの歴史を刻んだ水路や水田跡も都営住宅などとなって大きく様変わりしています。かつて、練馬駅北口の弁天通り西側には「豊島弁財天」が祀られていました。

<消えた「お浜井戸」>

 桜台6-32(旧石神井川ほとり)には、かつて湧水(泉)があり、現在の氷川台氷川神社のご神体が石神井川を流れてきたのを拾って祀った最初の地がこの泉のほとりであったと伝えられています。その後、ご神体は、氷川神社の地に移され、このため春の祭りには、お里帰りの神事が行われています。
 現在、この泉の跡には石碑が建ち、これには長禄元年(1457)に渋川義鏡が足利成氏との戦いに向かう折、この泉のほとりに祠(ほこら)を建てて須佐之男尊(すさのおのみこと)を祀り、戦勝祈願をしたと刻んであります。
 「練馬郷土史研究会会報」昭和43年12月14日号(第78号)に「お浜井戸消える」と題する一文があり、ここで筆者は、昭和20年代初め頃の石神井川は水の澄む美しい川で、蛍も飛んでいたと記し、お浜井戸も河川改修(戦前)以後、なお池として残され、太い樫(かし)の木が池のほとりにあって根本から清水が滾滾(こんこん)と湧いていたと懐古しています。この池も都市化により、次第にゴミ捨て場となって、昭和43年10月末から11月にかけて埋め立て工事が行われたと記しています。

弘法大師 池をつくる  石神井川水系の伝説(2)

昭和61年9月21日号区報
写真:「おはま井戸」にある「氷川神社発祥の地」の石碑(桜台六丁目)(平成29年)

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。