練馬の水系
<古い川の名残>
今はなくなった川も、いくつかの地名や町の境界にその名残を留めています。例えば、西武池袋線練馬駅南側の「千川通り」は、昭和30年ごろまで道路に沿って流れていた千川上水の名残です。また、石神井庁舎北側の富士街道沿いには、かつて田柄用水と呼ばれた小川が保谷方面から流れていましたが、今は、街道南側歩道になりました。貫井中学校(貫井2-14-13)校庭の南側道路の向かいには、昔、「貫井の池」という大きな湧水池があって、弘法大師伝説を伝えていますが、この池もまた、「貫井」という地名の発祥地となっています。大泉井頭(いがしら)公園はもともと「井頭池」という南北に細長い池で、白子川の源流とされていました。「井頭」というのも、この川の源流という意味のようです。
また、中村と豊玉の境の遊歩道の位置には千川上水からの分水が引かれ、それは今の学田公園(豊玉南3-32)から南にかけてあった大きな池に注がれ、旧中新井川流域の水田を潤していました。川や水路が町境になっている例は、羽沢と桜台の境界(今は暗きょ)のように案外多いのです。
こうした川や池の多くは、今では道路(暗きょ)や公園となりました。中には埋め立てられて、住宅地になったところもあります。
<旧水路網>
練馬区には、現在、石神井川と白子川という2系列の川が流れています。また、立野町と関町南境には、木立に覆われた千川上水堀が口を開けていますが、これは水が流れていません(千川上水の跡は西武新宿線井草駅西側線路下にも見られます)(※)。
しかし、昭和の初めごろまでは、図に見られるような水路網が練馬の地域を覆い、清流が流れていました。これらの川や水路は、流域の人々にとって大きな意味を持っていたのです。
石神井川、白子川、中新井川など自然河川(光が丘付近から東の田柄川も古くからあった)には原始・古代から人が住み着き、中世以降は川に沿って水田も発達したものと思われます。江戸時代には、千川上水から水を引いて水田開発も活発になりました。各水系で二重三重になっている水路は、多くが水田に引いた用水で、南北の用水の間が水田地帯でした。
明治4年以降につくられた田柄用水も、土支田・田柄地域から流れ出す自然河川につながれ、田柄、北町、そのほかの地域の水田灌漑(かんがい)や水車の原動力として利用されたのです。
また、富士山や大山参拝に向かう人たちが、これらの川の水で身を清めるため、精進場というものがつくられていました。一方で、野菜の洗い場も、川の至るところにできていました。
(※)平成元年3月29日に清流が復活しました。
次回からは、水系別に、川の歴史や伝説とともに流域の人々の生活の姿を紹介します。
昭和61年4月21日号区報
図:区内の旧水路網
写真:石神井川での野菜洗いの風景 正久保橋から(昭和15年頃)
◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。