現町名1<北町 きたまち>
東武東上線・東武練馬駅を南へ出ると、旧川越街道である。すでに鎌倉時代から、江戸と川越を結ぶ重要な道路であった。江戸時代には、ここに練馬の宿場がおかれ、東から下宿、中宿、上宿の名で呼ばれていた。本陣や問屋場の跡はもう尋ぬべくもないが、今も残る石観音(北町2-38)や浅間神社のたたずまいのなかに遠い歴史の匂いを感ずる。下宿と仲宿の中程から富士街道が分かれる。富士山や大山石尊への参詣みちである。不動明王を彫った「これより大山道」の道標(北町1-25)が建つ※。
大正3年開通の東上線(現東武東上線)は、17年間練馬を素通りしていた。昭和6年ようやく東武練馬駅ができると、付近に住宅が増え、商店街が発展してきた。翌7年市郡合併で板橋区になったとき、旧下練馬村の北の端だというので「練馬北町」と名付けられた。現在の町名は昭和41年旧町名を踏襲して、住居表示により実施された。
明治以来練馬の農業を支えてきた田柄用水は暗きょ化され、遊歩道となった。信仰の道、富士街道は拡幅され、そこには区内初の地下鉄有楽町線(現東京メトロ有楽町線)が開通した。
※この道標は環八通りの工事により、一時北町児童遊園に仮置きしていたが、平成20年6月に元の位置から8メートルほど西側の場所に設置した。元は、江戸方面から来る人のため、東南東の向きに置かれていたが、現在は見学しやすいよう向きを変えている。
写真:旧川越街道富士街道分岐点(昭和40年 北町1-25)
ねりま区報 昭和59年6月11日 掲載
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。