50 良好な街並みを守ってきた城南住宅

古老が語るねりまのむかし

伊佐早 正治さん(明治43年生まれ 向山在住)

<住宅組合を結成>

豊島園の南側(向山三丁目)にある「城南住宅」は、区内では恐らく、最も早い時期に宅地開発が行われた地域の一つだと思います。
 その宅地開発のきっかけとなったのは、大正10年ごろ、当時駒込の方に住んでいた小鷹さんという方が郊外に新しい住居を求めようと、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)沿線に目を向けたことだそうです。そのころ、中央線沿いでは既に開発が進められていましたが、武蔵野鉄道沿線ではまだほとんど手が付けられていなかったようです。それだけに電灯などの文化的な設備も不十分で、小鷹さんは、この辺で適当な土地を探すのに苦労されたようです。大正13年になってようやく現在のところに決まったそうです。
 借地をするために仲間を募った結果、約2万坪の土地を約40名の仲間で借りることになり、このための組合もできました。この組合は当時、「城南田園住宅組合」と呼ばれていました。「城南」というのは豊島園の旧跡「練馬城」の南という意味です。

<現在も生きているさまざまな規約>

 昭和7年ごろ、まだ学生だった私は、池袋に家を借りて住んでいましたが、城南住宅に住んでいた父親の友人の勧めで、私もここに1坪2銭5厘で土地を借りて、家を建てることになりました。
 城南住宅にはさまざまな規約があり、1軒の借用地は150坪以上とされ、また、建築様式や井戸・下水の位置などについての決めごとのほか、境界を生け垣にしなければならないなどの決まりがありました。これらの規約の大半は、現在でも生きていて、良好な街並みが残っています。
 今でも、私が移ってきたころに植えられたサクラの木が一部に残っており、そうした実績が認められ、昭和53年には区内で初めて「みどりの保全モデル地区」に指定されました。

<テニスを楽しんだ>

 私が移ってきたころの城南住宅には、画家や学者、建築家、会社役員、軍人将校といった方が多く住んでいて、敷地の広い家が多く、庭にテニスコートがあったところもありました。私たちもテニスクラブを作り、よそのチームとよく親善試合をしたものです。また、住宅内には空き地もあり、そこでイモを作って、レクリエーションにイモ掘りをしたこともありました。
 当時、日用品の買い物は、ご用聞きの人が注文を取りに来るというのどかな時代でした。また、昭和2年に開通した豊島園までの路線は、日曜などには豊島園に行くお客さんでにぎわっていましたが、池袋発の終電は9時7分と早く、仕事の帰りなどに乗り遅れると、大変な思いをしたものです。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成5年4月21日号区報

写真上:城南住宅(平成19年)
写真下:豊島園駅(昭和31年)