49 関町でのわが家の農業の移り変わり

古老が語るねりまのむかし

桜井 源一さん(明治38年生まれ 関町北在住)

<青梅街道を通って市場に出荷>

 私が子どもだった明治末~大正の初めごろ、関町の辺りは養蚕が盛んで、家でも蚕を飼っていました。お茶も畑のあぜなどでよく作りました。
 武蔵関公園の富士見池は、そのころ「溜井(ためい)」といい、周囲は水田で、そこにわが家の田んぼもありました。このほか石神井川沿いの神学校(現・上智大学神学部)の付近にも水田をもっていました。水田はいずれも戦前の区画整理(昭和3年~11年に実施)のときに埋められてしまい、しばらくは陸稲(おかぼ)を作っていましたが、その後手離してしまいました。
 このほかにも、昔ながらの小麦や大麦、ダイコンといったものを作っていました。これらは自家用が中心で、余れば出荷するという程度でした。出荷先は新宿や青山の市場で、青梅街道を荷車や牛車で運んで行きました。
 小学生のころ、家の若い衆に付いて市場へ行ったことがあります。帰りがけに、鍋屋横丁(現・中野区本町四丁目)にあった飯屋に立ち寄りました。当時、若い衆は市場へ出かけるときに、ごはんだけを大きな弁当箱に詰めて持ち、別に3銭をおかず代としてもらって出て、よくこの飯屋で煮魚などを頼んで食事をしていたそうです。

<安城での研修で養鶏を学ぶ>

 昭和に入ると養蚕はだめになり、代わってタクアンの漬け物を作るようになりました。間もなくキュウリ、ナスなどの前栽(せんざい)物も作り始めました。
 そのころ、私は現在の中野駅の付近にあった農事試験場によく足を運び、農業を学んでいました。キャベツの栽培などにも早くから取り組んでいた活動が認められたためか、東京府から私ともう一人が選ばれて、愛知県の安城で農業の研修を受けることになりました。そこには、全国から、若い農業研究者たちが集まってきていました。
 私は、そこで養鶏の実際を学び、帰って来てから養鶏を始めました。一時は300羽ほどの鶏を飼い、卵を杉並の肉屋へ出荷していました。しかし、戦時中に空襲で鶏舎をやられ、それきりになってしまいました。
 また、日本で初めてのオリンピックが昭和15年に開かれると決まった昭和11年のころですが、これからは外国からのお客が増えるので、日本の農業も下肥ではなく化学肥料を使った「清浄野菜」に切り替えなくてはいけないとのことで、その試作を命じられました。
 畑に「清浄野菜」と記したくいを立て、チシャ(レタスの一種)を作ったりしましたが、これも戦争でオリンピックが中止になったこともあり、長くは続きませんでした。

<戦後は果樹園も経営>

 戦後、トマトを作ったり、羊を飼ったこともありました。羊毛で洋服やオーバーを作ったものです。昭和30年ころからは果樹園を始め、最初はモモを作りましたが、手がかかったためにすぐカキに切り替え、50年ごろまで果樹園を続けてきました。後継者もなく、家での農業はこれが最後になりました。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成5年3月21日号区報

写真:舗装前の青梅街道(石神井西小付近 昭和初期)