48 土支田にある区内最古の水車
加藤 喜八さん(大正8年生まれ 土支田在住)
<水車を小麦粉の製粉に利用>
私の家には、昔使っていた水車が今もあります。直径が7mもある大きなものですが、時代とともに次第に大きくしていったらしく、一番最初のものは直径3mほどだったようです。
これを作ったのは、私から7代前の利左衛門という人で、文化13年(1816)のことといわれています。これが区内では最も早くできた水車とされています。
初めは、周辺の農家で作る米の精白や、小麦などの製粉を頼まれて、この水車を使っていたものだと思います。1俵(または1斗)当たりいくらという手数料をもらう仕組みでした。
わが家は、もともと農家でしたが、いつのころからか自家産の小麦や、付近の農家から買い取った小麦を粉にして売るようになりました。粉の販売先は、千住や三河島、浅草などの麩(ふ)屋が中心でした。料理に使う麩の原料になったわけです。一時、杉の葉を挽(ひ)いて線香を作ったり、大豆からきな粉を作ることもしたそうですが、やはり小麦粉が中心でした。
江戸時代には、叺(かます =わらむしろの袋)に入れた小麦粉を裸馬に積んで、また、明治以降はメリケン粉袋に入れて馬車で販売先まで運んだそうです。運搬は、専門の業者に頼んでいました。
<昭和の初めには電気も使用>
水車は、白子川の水流を利用していました。このため、今の八坂小の南西の所に分水口を作り、用水を引いていました。水車は土台から3mほど掘り下げた溝の中に納めてあり、水は水車の中腹にかかります。水車が回ると軸や歯車が連動して、搗臼(つきうす)5台、挽臼(ひきうす)2台が動く仕掛けです。
昭和2年~3年ごろ、ようやく村にも電気が普及し始め、家でも臼を動かすのに電気を使うことにしました。5馬力のモーターを取り付け、水車を止めてもこのモーターで機械が動くようにしたのです。当時は停電もよくあり、電気代も馬鹿になりませんから、水力と電力とを併用して使ったものです。ともかく、これで1年中機械は動かせることになりました。
電気を併用することをきっかけにして、米粉を挽く臼を入れ、上新粉作りも始めました。
<東京オリンピック後に水車の利用を停止>
戦争が始まるまでは、遠方から若い人たちが住み込みで働きに来て、手伝いをしてくれていました。しかし、私が昭和15年に戦争に行って21年に帰ってみると、若い人たちも皆戦争に行ってしまい、一人も残っていませんでした。そこで、戦後は製粉機を入れて効率化を図り、得意先もそば屋さんなどに切り替えました。
昭和32年ごろから白子川の改修工事が行われることになり、田んぼを短冊状にするなどの改良事業が始まりました。工事は5~6年で終わりましたが、すりばち状に改修した白子川の土手が、水が出るたびに崩れるので、これをコンクリートで固めることになりました。また、同じころから、宅地化が始まり、水が目に見えて汚れてきました。昭和39年の東京オリンピックのころです。そのため、水田をあきらめる農家が続出し、42年ごろまでにはすっかり田んぼはなくなり、私の家でも水車をあきらめることになりました。
聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成5年1月21日号区報
写真:水車(土支田4丁目 昭和50年)