43 全村が区画整理された中新井村

古老が語るねりまのむかし

金子 定生さん(昭和2年生まれ 豊玉南在住)

<中新井村の風景>

 私が、物心ついた昭和6、7年ころの中新井村(現在の豊玉、中村の地域)は、南の中野寄りに田んぼが広がっていました。
 田んぼは、中新井川の水を利用したものでしたが、この川は、豊玉と中村の境で千川上水の水を取り入れたものでした。今の練馬自動車教習所(豊玉南3丁目)付近に堰(せき)があり、ここで川は2つに分かれ、1つは富士稲荷神社(豊玉南3-11)の南側50mくらいのところを東に流れていました。幅は1間(約1.8m)くらいでしたが、それからずっと南側が田んぼになっていて、その先に中新井川の本流が流れていました。
 また南蔵院の南側にも田んぼがあり、これも千川上水の水を中村地区内で引き入れて利用したものでした。村の中央から北側一帯はほとんど畑と屋敷森で、清戸道(現在の千川通り)沿いに何軒か店があり、新しい家が建ち始めた程度でした。

<昭和7年、東京市に編入>

 昭和の初めごろは不況で、農家の生活はどこも大変だったようです。そんな時、現在の練馬地域の村々が板橋の地域と1つになって「板橋区」となり、東京市に編入されることになりました(昭和7年10月)。さらに、目白通りや環七などの新しい道路計画があることも分かり、中新井では、この機会に町作りをしようという動きになったのです。
 たまたま、練馬大根が不作になるのもこのころで、そんな中、村の北側の練馬駅近くの人たちは、転入者に家や宅地を貸して経済的に潤っていました。そこで、村の南側の方も何とかしなくては、という声も多かったようで、こうして村全域に区画整理が行われることになりました。

<区画整理のための組合を結成>

 昭和8年8月、現在の区役所がある地域一帯を対象に中新井町第一土地区画整理組合ができ、9年11月には氷川神社(豊玉南2-15-5)辺りを中心とする第二組合、10年3月には武蔵大学辺りを中心に第三組合、12年には中村橋駅を中心として中村町第一組合、さらに13年には中村の南部と中野区鷺宮の一部を合わせた中鷺土地区画整理組合ができ、順次事業が進められています。
 私の亡くなった父親(定七氏)は、まだ30歳代でしたが、中新井町第二の組合長を務めています。農作業との両立で、夜昼なく働いていた父の姿が目に浮かびます。

<地名を豊玉に変更>

 区画整理の資金作りのために地主さんたちは土地を出し合い、共栄信用金庫(現在の西京信用金庫)を設立させるなど、当時の人の苦労は大変だったと思います。こうして道路の新設・拡張・水路の整理、公園開設などが進められ、水田も埋め立てられました。
 そんな中、今の豊玉の地は当時、中新井町といっていましたが、中野に新井町というところがあって紛らわしいという理由から、別の名にするようにと東京府から指示され、結局、豊玉小学校の名を採って「豊玉」という地名になりました。

43 全村が区画整理された中新井村

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成4年8月21日号区報

写真上:旧中新井村地域の人口推移
写真下:中新井豊玉小学校(大正7年頃)