41 武蔵野鉄道と関東大震災 ~大泉村「奉公」談(1)~

古老が語るねりまのむかし

須崎 竹次郎さん(明治42年生まれ 西大泉在住)

<西大泉へ「奉公」に出る>

 私は明治42年に小平村字野中新田与右衛門組(現・小平市花小金井)に生まれ、尋常小学校卒業後、満12歳で大泉村小榑(こぐれ)新井(現・西大泉五丁目)の大きな農家に奉公に出ました。
 主な仕事は子守をすることでした。そのころ、大泉村にはまだ電灯が普及しておらず、石油ランプを使っていて、このランプを掃除したり、風呂を沸かすのも子守の仕事でした。
 母親は、初めて家を出た私のことを心配し、寝ているときでも、外で音がすると私が耐えられずに帰って来たのではないかと跳び起きたそうです。でも、奉公先の人たちは優しく、子どももなついて、私には何の不安もありませんでした。
 そのころの農家は、正月とお盆、お節句のほか、1年間に15~16日くらいしかお休みがありません。農家はそれほど大変だったのです。
 3月27日に奉公に出た私は、4月15日に最初のお休みをもらえることになりました。奉公に出るまで、私は毎年、小金井の桜を見に行っていましたが、今年は行かれないとあきらめていました。それをまた見に行かれると喜んでいると、その朝、主人が、迷子にならずに行って来いよ、と笑いながら20銭の小遣いをくれ、また、若だんなも20銭くれました。私は生まれて初めてこんな大金を持ったのがうれしく、また、母親に小遣いがあげられると、急いで2里(約8㎞)の道を家に向かいました。その日は、母と一緒に花見に行き、帰りにお菓子を買って大泉に戻りました。

<武蔵野鉄道の蒸気機関車>

 私が奉公に出たころは、今の西武池袋線は「武蔵野鉄道」といっており、蒸気機関車が客車と貨車を連結して走っているのが畑からもよく見えました。2時間に1本くらいの間隔でしたから、今の列車は何時のものだと、すぐに分かります。当時の蒸気機関車では、最寄りの保谷駅から池袋まで1時間以上もかかりました。

<関東大震災>

 そのころ、農家では、季節の野菜などを村の駐在所に届けて、食べてもらったりしていました。
 9月1日は八朔(はっさく =陰暦8月1日)で休日でした。こうした祝日に家で作る手打ちうどんは何よりのごちそうです。この日もうどんを作りましたので私は自転車で駐在所まで届けに出かけました。
 うどんを駐在所に届けに行く途中、西の方から”ゴーゴー”という音が聞こえて来たので、「風かな」と思っていると、自転車が揺れ出してハンドルが利かなくなり、あっという間に身体が投げ出されていました。自転車を起こそうとしてもとても無理で、杉の大木にしがみついて地震の収まるのを待ちました。
 同じ日に、その後も、地震は何度か繰り返し起こりました。夜になって東の空を見ると真っ赤になっていたので、東京は火事になったことが分かりました。余震のため家にはいられず、この夜は竹林の側にむしろを敷いて蚊帳(かや)をつり、皆で身体を寄せ合って一夜を明かしました。

41 武蔵野鉄道と関東大震災 ~大泉村「奉公」談(1)~

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成4年5月21日号区報

写真:農家の縁側(昭和33年)