39 「井頭池(いがしらいけ)」と「火之橋(ひのはし)」

古老が語るねりまのむかし

渡辺 正好さん(大正2年生まれ 東大泉在住)

<白子川の源流>

 大泉井頭公園は、以前「井頭池」があったところで、白子川の源流といわれていました。私たち土地の者は、「溜(ため)の池」と呼んでいました。
 池の広さは6反1畝(約61a)あったそうですが、一面水草などで覆われ、沼のような状態でした。池の一角に中島があって、何の木か分かりませんが、枯れて白い肌だけになった「ご神木」が立っていました。その根元に石の祠(ほこら)があり、弁天様を祀(まつ)っていました。私が子どものころには、池の周辺はうっそうとしていて、容易には近付けなかったものです。
 夏の日照りが続くときなどは、この弁天様に村の人たちが集まり、雨乞い(あまごい)をしていました。
 池から湧く水は、白子川沿いの水田にとって大きな恵みをもたらすものでした。池の西側の今は住宅地になっている辺りにはスギ林があって、池の湧水を助ける役割を果たしていました。このスギ林は、現在の土支田四丁目にあった山八水車の経営者、加藤家が妙福寺に寄進したものとか聞きました。
 この井頭池も、戦時中に半ば埋め立てられて、付近にあった東京都の女子開拓訓練所の実習用の畑になりました。今も公園内にある2本のヤナギ(マルバヤナギ)の古木の根元がかなり深く埋められているのは、その時の名残です。
 戦後、保谷の方から来る水路の延長部分を含めて、池の一部を掘り返し、現在の川になりました。この辺りが公園になったのは昭和40年のことです。

<火之橋は樋(ひ)の橋か?>

 今、「火之橋」が架かっているところが、かつての池の北端で、池の水が流れ出すところでした。橋ができる前は、ここには土のうが積まれ、堰(せき)が造られていました。ここを通る人は、その上に渡した木を橋代わりにして歩いていたわけです。
 堰から先は、白子川本流を挟んで、両側の高いところに細い用水が造られていました。堰を閉じると、池の水は両側の用水に流れ込み、用水と本流の間に帯状に続く水田にかかる仕組みでした。
 東側の旧土支田村を流れる用水を「土支田川」、西の旧小榑(こぐれ)村を流れる用水を「小榑川」と呼んでいました。白子川本流は「大川」とも言っていました。
 堰の上にあった木の板のことを、私たちは「溜の橋」と呼んでいましたが、「ひの橋」と呼ぶ人もいました。この「ひの橋」という呼び名に、今は「火之橋」という漢字が当てられているわけです。これは、江戸時代からの「焼け弁天」の伝承からきているのかも知れませんが、呼び名の本来の由来は、むしろ「樋の橋」のように思われてなりません。
 堰によって水を分けた場所を「樋」といい、そこに架けられた橋を「樋の橋」という例は、新座市の黒目川にもみられます。
 公園の南にある「七福橋」は、昭和7年、大泉村が東京市に編入されたことを契機にできた道に架けられたものですが、この名は池の弁天にちなんで付けられたものでした。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成4年3月21日号区報

写真上:白子川(井頭池付近 昭和27年)
写真下:白子川火之橋(昭和54年)