31 幻に終わった学園都市計画 ~大泉学園町の昔(1)~
加藤 喜平さん(大正8年生まれ 大泉学園町在住)
<長久保山>
大泉学園町は、昭和7年に東京市に編入されました。それ以前は、大泉村の大字の一つで「小榑(こぐれ)」という地名でしたが、この辺の人はみんな「下小榑(しもこぐれ)」といっていました。家が少なかったので、番地が書かれていない手紙もちゃんと届きました。
この学園町の北側半分近くは、川越街道辺りまで広い雑木林で、私たちは「長久保山」と呼んでいました。タヌキやキツネ、ムジナやマミ(アナグマ、タヌキの別名)などが人を化かすとか、「大将虫(たいしょう(むし)」という棘(とげ)だらけの大きな虫は猛毒で、刺されると危ないから子どもは行くんじゃない、などといわれたものです。
<大学の誘致計画>
大正11年ごろ、箱根土地会社(現 西武鉄道の前身)がこの長久保山の大泉村分を開発して、東京商科大学(現 一橋大学)を誘致し、学園都市をつくる計画を立てました。村の有力者たちが箱根温泉に招待され、そこで協力を頼まれたそうです。
そして、今は大泉中学校が立っている高台の土と、共栄住宅(現・東大泉三丁目)前の切り通しの道をつくる時に削った土を、毎日トロッコで運んで、学園橋と北園の間にあった田んぼを埋め立てました。
私の家は高台にあったので、トロッコの走るのが庭からよく見えたし、近くに行って見たこともあります。
こうして、今の大泉学園町六丁目から八丁目にかけて、縦横の道路の整備も進み、一般の人への土地分譲の宣伝が行われるようになりました。新聞やラジオを使ったり、チンドン屋さんを頼んで人を集め、3日連続で売り出しの催しものをしたそうです。今の新座市立栄小学校の辺りに1千坪ほどの大広場をつくり、万国旗を飾って、水谷八重子や沢村宗十郎などの役者を呼び、唄や踊りを見せたので、地元の人たちも随分のぞきに行ったようです。
<幻の学園都市>
ところが、肝心の商科大学は結局ここに来ませんでした。大学の一部(予科)はグラウンドのあった石神井公園駅の近く(現 石神井町八丁目)の方へ移り、そこもどういうものか昭和8年9月までで、国立の方へ移っています(その跡地が、戦後、都営石神井ハイツになった)。
このため造成地の方は、大学を予定していたところも含めて住宅用地として売り出しましたが、当時の不況から思うに任せなかったようです。こうして、学園都市計画も幻になってしまいました。
幻といえば、昭和7年ごろ、今の東大泉三丁目の広い土地に万年塀を巡らし、「聖心女学院建設用地」と書かれていたのを思い出します。こちらは、陸軍がキリスト教の学校だからと反対し、追い出してしまったとか聞きました。昭和16年、朝霞に陸軍予科士官学校ができると、この土地に、そこに通う軍人・軍属のための住宅ができ、将校住宅と呼ばれることになりました。それが戦後になって、今の共栄住宅になるのです。
聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成3年6月21日号区報
写真:中里(大泉町一丁目)から朝霞に向かう坂道(昭和30年)