22 豊玉の木挽(こび)き業
小野 善造(ぜんぞう)さん(高松在住)
<木挽きの1升めし>
私の父親は、今の豊玉北五丁目地内で木挽きの仕事をしていました。「木挽きの清(せい)さん」とか「中新井の木挽き」で通っていましたが、もとは大正6年ごろに、新潟から移ってきたのです。
木挽きというのは、山から切り出してきた目通り2尺(60.6cm)とか、3尺(90.9㎝)、またそれ以上の大木を、建造物の目的に応じて裁断する仕事で、いわば樵(きこり)と大工との中間に立つ作業をするのです。練馬駅前の内田材木店さんや、中村の桜井銘木店さん、また大工の棟梁(とうりょう)から、巾物(はばもの 幅の広い板や柱)をひく仕事を頼まれていました。
当時は、大きな屋敷森や山林を持つ農家が練馬地域にも多く、家の建て替えなどには、自分の林の木を使ったりしたものです。そうしたときには、現場に出張して仕事をしました。
また、社殿の改築などにも出張していました。昭和4年ころには、大工の棟梁田中辰五郎さん(大辰さん)の下請けで豊玉の氷川神社の改築を手がけ、昭和7年には中野・江古田の氷川神社も手がけました。
巾物は「大阪挽き」といって、2人がそれぞれ大鋸(おおのこぎり)を持って向かい合ってひくので、気が合わないとひけません。また、用途に応じて切り分ける必要があるので、建造物の設計図を読み取る力がなければ、一人前ではないといわれました。
縦1尺(30.3cm)、横1尺、長さ1丈(3.3m)の大きさの木を1石(こく)といって、これが手間賃の目安になります。これより太いものは巾増しといい、割高になりました。昔は「木挽きの1升めし」「石屋1升5合めし」などといって、それぞれ1日に稼ぐ平均的な賃金とされました(例えば、木挽きは1日1升(約1.8ℓ)の米相当の賃金になった)。
<戦時中は木材も徴用>
このほか、近くに並木さんという車大工(牛車、馬車、手車専門の大工。鍬(すき)の柄や天秤棒なども作っていた)がいて、ここから注文を受けたり、下駄の材料を整える仕事もしていました。
第2次大戦中は、何でも「物」が足りない時代でした。木材も同じで、山林などを持っている家には、木の徴用がありました。そのころ私の家には、陸・海軍に納める材料を整える仕事がよく入りました。軍艦の一部とか、カッターボートの素材、荷車や木銃(銃剣術の訓練用)といったものの材料まで作りました。
このため、石神井や大泉、田無、清瀬、ときには所沢辺りまで、ケヤキやカシなどの木を切り出しに出かけたものです。
<昭和30年代で廃業>
私は、昭和17年9月から軍隊に入っていましたが、戦後は家の仕事を引き継ぐつもりで、父親の手伝いをしていました。
建築材料やだるま船の舳先造り(ケヤキの根曲り(根の曲がった部分)を使う)などの仕事をしましたが、珍しかったのは、毎日新聞や双葉出版から頼まれて、印刷用のロール紙をひきに出かけたことでした。戦後間もないころで、紙不足のため、取り急ぎノルウェーから輸入したロール紙の幅が長過ぎて、日本の機械に合わないのです。そこで、そのロール紙を輪切りにしてほしいと言われ、深川の倉庫まで通いました。
こうして一時忙しい思いをしましたが、やがてが電動化され、建築材料にも合板が使われるようになると、手挽きの本格的な仕事は、はやらなくなりました。昭和37年ごろ店を畳みましたが、私たちの時代は終わったのだ、と思いました。
聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成2年6月21日号区報
写真:キャベツ畑と屋敷林(平成18年)