19 上練馬村で初めての自転車店

古老が語るねりまのむかし

鹿島 敏治さん(春日町在住)

<自転車店の開業>

私の父親は、大泉村から養子に入った人でしたが、若い時から機械いじりが好きで、大正何年かに今の家の所(中の宮バス停近く)に自転車店を開きました。
 この辺りは、上練馬村の中心地で、今の第四出張所の向い側には村役場があり、春日町交番前には、東京区裁判所上練馬出張所(現・登記所)がありました。富士街道沿いにはだんご屋さん、そば屋さん、酒屋さん、呉服屋さん、雑貨屋さんなどがありました(その頃からの店が今もある)。とはいっても、自転車店は珍しく、第一、まだ自転車がそれほど出回っていない時代でした。
 私が物心付いた昭和初め頃でも、周辺一帯は大根の主産地で、広い畑のあちらこちらに農家の森が点々と見えるという風景だったわけです。それでお客も農家が中心だったのですが、それでも結構はやっていて、住み込みの若い人が何人かいました。

<自転車の使われ方>

当時、自転車がどういう具合に利用されていたかといいますと、まずリヤカーにつないで野菜などの運搬です。その頃はまだ、物を運ぶには、牛車や馬車、あるいは手車という大八車を軽便にした、手で引く車を使う事が多かったのですが、これをリヤカーに切り替える農家が少しずつ増えてきたのです。家では、リヤカーも扱っていました。
 切り替えるといっても、リヤカーや自転車はまだ高価で、ある程度まとまったお金が必要でしたから、農家の多くは無尽(仲間で出し合ったお金を、くじなどで当たった人が順番に借りる)を利用して買ったそうです。
 つぎに、村の若い人たちが、仕事の合間に自転車を乗り回して遊ぶようになりました。村での息抜きといえば、正月や祭りなど、季節の行事くらいで、若い人にとっては楽しみも少なかったのです。そこへ自転車が入ってきて、これを乗り回すのが遊びの1つになりました。広場で競争することも、よくありました。

<2台の自動車で円タクも経営>

 店では、自転車のほかにもいろいろ扱っていました。タバコも売っていましたし、教科書の取り次ぎもしていました。そのころ、練馬尋常・高等小学校は愛染院の南隣にあり、私の家はすぐ目の前ということになります。それで、教科書の取り次ぎも引き受けたのでしょう。店は忙しく、私も小学生の頃から、いろいろ用を言いつけられたものです。3年生の時には、店に置いた教科書が足りなくなり、上野の書店まで自転車で取りに行かされたこともあります。
 また、店にはフォードとシボレーを1台ずつ置いて、円タク(一定内の距離ならどこでも料金1円のタクシー)の経営もしていました。当時のタクシーは、助手が付いてドアの開閉をしたため、運転手2名、助手2名を雇っていました。
 朝8時に出掛けて東京の市内を中心に流し、翌朝8時に帰るという勤務でしたから、2台を交互に稼働させたのでしょう。一昼夜で20円売り上げがあれば、腕のいい働き手だと言われていました。もちろん、近在の人からも頼まれて、車を出すこともありました。
 今思えば、相当に経営能力のあった父親に違いありませんが、この父も私が小学校4年生の時、亡くなってしまいました。まだ42歳でしたが、これがきっかけで店は閉じられることになりました。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成2年2月21日号区報

写真上:武蔵高校前を走る人力車(昭和15年)
写真下:川越街道(錦一丁目、高徳橋付近 昭和22年)