6 鐘の鳴る丘(その1)
佐藤 克彦さん(大正8年生まれ 高野台在住)
今回と次回は、終戦直後のラジオ放送「鐘の鳴る丘」に出演した豊玉第二小学校の子供たちのお話を連載します。
<子どものため練馬へ移住>
私は、本郷生まれなのですが、昭和10年に中新井町(現・豊玉地域)に移ってきました。旧制中学生のころでした。父親は子どもたちが伸び伸び育つことを願って、このころまだ広い庭が持てたこの土地に移ったわけです。
その当時、中新井町では、そろそろ土地区画整理に掛かっていましたが、まだ草地や畑が多く、イチジク畑やジャガイモ畑が印象に残っています。中新井川はまだ自然の土手で、フナなどが泳ぎ、カエルもいて、両側の田畑にはトンボやイナゴもよく見かけました。
14年9月に現在の江東区立第二亀戸小学校の教員になりましたが、17年9月に地元の豊玉第二小学校(当時は国民学校)に赴任してきました。太平洋戦争の最中でした。
<学童疎開>
戦争はいよいよ激しくなり、19年6月には学童疎開が開始されました。豊二小の子どもたちも、8月4日に、疎開地と決められた群馬県碓氷郡磯部町に向けて出発しました。
ただでさえ不安な戦時下で、親元から離された子どもたちは、日と共に暗く沈んでいきました。私は、昔話をしたり、童話を読んで聞かせたりしましたが、そのうちにこちらの種も切れてきます。そこで思い付いたのが劇遊びでした。はじめは私の方で内容を考えて、子どもたちに演技をさせていましたが、そのうちに子どもたちで自作自演するまでになりました。もちろん参加者全員が主役で、舞台は自然の中の至る所にありました。
当時、第二師範学校(現在の豊島区西池袋一丁目)で米津千之(よねつせんじ)先生という方が顧問となり、その方に指導を受けていた児童文化部の学生さんたちが疎開先を回って、子どもたちのために歌を歌ったり、劇や人形劇を見せてくれたこともあります。
子どもたちと劇とのつながりは、こうした中から生まれました。
<シロバト子供会>
やがて終戦となり、帰京しましたが、食べるものもなく、遊ぶものもない、いよいよ厳しい環境の中で、子どもたちはすっかり笑顔を忘れた子になっていました。
このような子どもたちに、たとえ一時でもいいから笑顔を取り戻させてやりたい、そんな気持ちから同じ志を持つ人たちを誘い、日大芸術学部の講堂を本拠にして「わだち子供会(二度と戦争のわだちを踏まないようにとの願いを込めて命名)」という子供会の連合グループをつくりました。
これに関係する先生方が多くの小学校に子供会をつくっていったのです。私は、豊二小の子どもたちを集めて、「シロバト子供会」をつくりました。
この子たちが後にNHKの連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」に出演することになるとは、思ってもみないことでした。
聞き手:練馬区専門調査員 北沢邦彦
平成元年1月21日号区報
写真:疎開児童の編物練習(群馬県磯部町 昭和19年)