5 関のかんかん地蔵さま

古老が語るねりまのむかし

中村 テツさん(大正元年生まれ 関町東在住)

<昔の青梅街道>

 私は、昭和9年に下井草からここ(かんかん地蔵隣の店)に嫁に来ました。当時、家では酒や燃料のほか、日用雑貨を売っていました。
 酒は中野坂上に問屋さんがあって、そこまでリヤカーで仕入れに行っていました。しかし、昭和17年におじいさん(義父)が亡くなり、連れ合い(夫)が戦争に取られましてからは、とても女手では無理で、この後、酒はよしました。連れ合いは19年に中国で戦死しています。
 この頃、隣近所には(青梅街道沿いに)私の家を入れて4軒しか店がなく、どの店も酒や雑貨を扱っていました。青梅街道も今の半分くらいの幅で、お地蔵さまから西へは道沿いにお茶が植えられていました。街道は東京オリンピック(昭和39年)前に、大体南側の方に広げられています。ケヤキ並木もこの時からです。

<擦り減ったお地蔵さま>

 このお地蔵さまは、三宝寺さんが管理しておられますが、たまたまお隣のご縁でお掃除をしてさしあげたり、お花やお線香をお供えしたりするのが私の日課となっています。
 おじいさんの生前の話ですが、このお地蔵さまは、日光東照宮に家康の骨が納められた頃、この辺りに悪い病気がはやり、多くの子どもが亡くなったのを供養するため造られた(造立は正徳元年。西暦は1711年)とか申していました。
 初めはお堂もなかったのですが、昭和8年に最初のお堂ができたそうで、これが戦後30年たつうちに随分傷んで、雨漏りがするほどになっていました。また、お地蔵さまも、何百年もの間、お参りする方々から石でたたかれ(願を掛けるとき、石でたたく。この時カンカンと音がしたのが名前の由来とか)、足の辺りはすっかり擦り減って、やっと立っておられるまでになっていました。

 <お地蔵さま供養>

 この辺りの方で、朝早くか、夜になって人通りが少なくなった頃、お地蔵さまをお参りに来られる方があります。
 お名前は存じませんが、この方がある日、私の所へ来られ、「いつもご親切に供養しておられ、同じ信心する者として、本当にうれしいことです。これは、その気持ちです」とおっしゃって、封筒を置いて行かれました。開けてみると10万円入っていました。これは大変と思い、叔父に話して、お寺のご住職さんにお届けしますと、ご住職さんも驚かれ、「どうしたらよいと思いますか」と、お尋ねになります。それでは、お地蔵さまの足を修理していただければと、お願いしましたところ、ご住職さんは急いでお手配くださり、職人さんがみえて、コンクリートで修理しました。
 それからしばらくしたころ、あの封筒の方がまたおいでになり、厚くお礼を申され、どうしてもとおっしゃって、今度も封筒を置いて行かれました。これは20万円入っていました。そこで近所の檀家(だんか)総代の方にお届けしますと、早速ご住職さんと相談くださり、今のお堂が新築されることになりました。その折、ご住職さんの手で手厚く供養が行われました。
 (堂の柱に「昭和五十六年十二月吉日、金参拾萬円也、関町一住民殿、為地蔵尊御堂建立資金中へ」と記す表札がある)

5 関のかんかん地蔵さま

聞き手:練馬区専門調査員 北沢邦彦
昭和63年12月21日号区報

写真:関のかんかん地蔵(関町東1-18)