1 大正ころの三宝寺池周辺

古老が語るねりまのむかし

篠田  貴満さん(明治36年 現・春日町生まれ)

1 大正ころの三宝寺池周辺

<池には蛇がいた>

 私が子どものころ(明治末から大正にかけて)の三宝寺池は、今より深い樹木に覆われて、うっそうとしていたものだ。昼でも暗い山の奥というふうで、子ども一人じゃ、おっかなくって入って行けない所だった。池の表面には藻なんかがいっぱい生えて、底には蛇だか、竜だか知れない主が住んでいるんで、「泳いじゃなんねぇ」と、大人に言われた。
 本当のところ、雨なんか降ると池の周りには蛇がうじゃうじゃ這(は)っていて、伝説もただ嘘だとばかりはいえないような、不気味な所だった。

<池で泳いだ>

 大正10年頃だかに、この池の北東の所、最近まで釣り堀になっていたあそこに、でかいプールができた(大正9年。東西100m 南北25m 深さ0.9m 1.8m 2.7mの段差があった。通称「百メートルプール」)。
 私らは「水泳所」と言っていたが、底に小砂利を敷き、周りは板で囲ってあった。水は、池から引いていた。腕白小僧が5人も入って、ばしゃばしゃやれば、すぐ泥水のようになってしまう。
 また、プールの周りに葦簀(よしず)張りの茶店ができた。若い娘が水着姿で、氷菓子のようなものを売っていた。
 ここで泳ぐ人を指導するため、東京府から合田(あいだ)という先生が毎日通って来た。雨が降っても休まなかった。肝の太い先生で、ある日私をつかまえて、「三宝寺池で泳ぐべぇ」なんて言う。つい、その気になっちまった。
 ところが水が冷たく、藻が足に絡んで、とても泳ぐなんてもんじゃない。犬かきでどうにか向こう岸にたどりついたが、大人が、この池で絶対泳ぐな、と言った意味がなんとなく分かった気がした。

<豊田園ができた>

 石神井村に豊田銀右衛門という人がいて、いろいろ村のために働いた人だった。先のプールができた頃だかに、この人が自分の土地に手を入れて、公園を造った。豊田園と言っていた(ボート池東側乗り場の北側台地上に第一豊田園が大正2年頃にでき、その後、ボート池南側に第二豊田園ができた)。
 園内には真ん中に池があって(第二豊田園)、金魚が泳いでいた。ほかにブランコがふたつばかりと、ベンチが10ばかりあった。人は、あまり入ってはいなかった。周辺は畑と田んぼ(ボート池は水田だった)、雑木林といった風景だった。(大正4年に武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が開通したことに関連し、村の発展を図る目的で豊田園が造られたという)。

聞き手:練馬区専門調査員 北沢邦彦
昭和63年8月21日号区報

写真:三宝寺池(昭和16年)