≪結び≫おわりにあたって

ねりま歳事記

なぜ歳事記か

 という質問をよく受けた。質問にはふたつの内容があった。ひとつは「歳時記」でなくて、なぜ「歳事記」かということ。もうひとつは、正月を海外で過ごす人が多くなった今日この頃、いまさら歳事記とは、という疑問であった。
 一般には俳句の季題を分類・解説した書物を「歳時記」と言う。「歳時記」には四季の時候・天文・地理・動物・植物・人事などを表す季語や類句が収められている。別名「季寄せ」とも言う。なかでも主に人事の部に分類される1年の行事と、それにまつわる人びとの生活や信仰をまとめて「歳事記」とよんだ。江戸期すでに、滝沢馬琴の『俳諧歳時記』や、斉藤月岑(げっしん)の『東都歳事記』がある。歳事は年中行事と同義に使われることが多い。年中行事は毎年決まった時期に宮中で行われる公事をいったが、後に、民間の行事・祭事もそう呼ぶようになった。

 昭和37年、練馬区教育委員会は、区内1千軒の旧家を対象に、年中行事の調査を実施した。それによると、全体で76項目もの行事が記録されたにもかかわらず、300軒以上の家庭で行っている行事は、正月・七草・節分・ひな祭・春秋の彼岸・端午・七夕・盆・十五夜・年越などの13に過ぎなかった。それほど年中行事は多岐にわたっているのである。

 
 村の年中行事は神社や寺院を中心とする祭事と、個々の家で独自に行う催事がある。昔はどの行事も四季の農作業と切り離すことはできなかった。農作物は百姓が作るものではなく、土と自然が作ってくれる。百姓はそれを手伝うだけだ、というのが百姓の考えである。それゆえ百姓は事ごとに自然の恩恵へ感謝をささげる。農村の行事の多くは、先祖伝承のものであって、長い年月のあいだ人びとの心の奥にはぐくまれ、一種の信仰にまでなってきていた。

 農業の激減した練馬区で、こうした農事にかかわる年中行事が無くなっていくのは当然かもしれない。しかし、区内にはまだまだ昔の行事がたくさん残っている。この1年に紹介した代表的なものだけでも十指に余る。大乗院の帝釈様、三宝寺の大黒様、氷川台氷川神社の田遊びと鶴の舞、長命寺奥の院御開帳、富士塚山開き、天王様、愛宕神社金魚市、各地の秋祭り、練馬と石神井のお酉様、妙福寺のお会式、関のぼろ市などなど。その外、区民の方から電話をいただいたものに、正月・5月・9月の18日、中村三丁目御嶽神社社頭で行われる探湯式(たんとうしき)がある。近ごろ、区内では見ることのできなくなった修験道・火渡りの神事に匹敵するもので、行者が全身に熱湯を浴びる荒々しい行(ぎょう)が披露される。

おわりに

 
 
 かように地域寺社中心の年中行事は、簡素化されたり、近代化したものの、まだ以前の形が継承されている場合が多い。ところが個々の家の年中行事は、生活様式の変化や、核家族化で、昔の伝統的行事は姿を消しつつある。家族の誕生日とクリスマスが年中行事という家も少なくない。ひな祭にしても、端午の節供にしても、七五三にしても行事の本質が見失われてしまった。テレビのコマーシャルにあおられ、デパートの商業べースに乗ったものだけが年中行事として生き残る時が来るのではないだろうか。そんなことのないよう、もう一度、家に伝わる年中行事を見直したいものである。

 連載中は多くの方から自分の家のやり方や、ご意見をいただいた。地域や家による行事の相異についてご指摘もあった。行事の具体的な内容になると違いは千差万別である。例えば十五夜の栗や芋をなまで上げる家もあれば、茹でる家もある。それは、行事の宰領は主人であっても、作り手は主婦に委ねられているからである。その家本来のやり方と、嫁の実家のやり方が世代ごとに複合していく。同一の地域で隣同士やり方が異なるのも当然かもしれない。 
 早宮・島野伝五郎氏、大泉学園町・加藤惣一朗氏には、度々ご教示や写真の提供をお願いした。区内各地域の神社、寺院、古老の方々には、いろいろご協力いただいた。終りに当たって深く感謝する次第である。

 郷土史研究家 桑島新一(前練馬区専門調査員)

≪結び≫おわりにあたって

 このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「ねりまの歳事記」(昭和57年7月~昭和58年7月区報連載記事)を再構成したものです。
 こよみについても、当時のものを掲載しています。

写真上:探湯式(御嶽神社 平成15年)
写真中:妙福寺のお会式(昭和31年頃)
写真下:灯篭流し(石神井公園池 昭和29年)