≪9月≫ 秋の実りを神さまと祝う
八朔(9月1日)
旧暦の八月朔日(ついたち)、八朔(はっさく)の節句ともいう。練馬では月おくれで9月1日がこの日にあたる。
もともと八朔はその年の新穀を贈答して祝う民間行事であって、稲の実りを祝い合う意味から「田の実」ともいわれた。転じて武家の間では君臣が互いに憑(たの)み合う意にかけて、たのみとする主君へ太刀や馬などを贈り、主君からも家臣へ返しの品を賜るようになった。室町時代には将軍から朝廷へ、諸大名・公卿󠄁から将軍へ進物を贈る幕府の重要な儀式となり、憑総奉行(たのみそうぶぎょう)という役職さえ置かれた。
天正18年(1590)八月朔日、徳川家康は江戸へ入城した。家康がわざわざこの日を選んだのか、あるいは偶然なのか定かではないが、以来幕府にとって八朔の日は正月元日と並ぶ重い式日となった。諸大名は将軍へ賀辞を述べ太刀献上などを行うのが例であった。しかし農村では武士や町人たちの儀礼的な行事と異なり、この日は農業と深い関わりのある大切な祭りの日であった。ちょうどこの頃稲の穂が出始め、畑仕事が一段落するので、秋作の無事を祈り、豊作を祝うのである。八朔の行事は今も練馬の古い農家で続けられている。朝から餅や赤飯を作って神仏に供え、家中でこれを食べる。畑仕事は一日休んで、嫁には麦や米の粉を持たせ実家へ泊りに行かせる。翌日実家ではその粉で、だんごやまんじゅうを作って婚家へみやげに持ち帰らせる。家でとれた生姜(しょうが)を持たせるところもある。「しようがない嫁だが頼みます」というしゃれかもしれない。
またこの頃は立春から数えて二百十日にあたり強風が吹く。作物が風の被害を受けぬようにと、また無事に越すようにと感謝をこめて、風祭りの神事が行われる。練馬には江戸初期からつづく風祭姓の旧家があるが、この神事をつかさどった家柄であろう。
彼岸と社日(9月20日~26日)
23日秋分の日が彼岸の中日。太陽が赤道の上にきて昼と夜の時間が同じになるのが春分と秋分である。その前後7日間がお彼岸である。彼岸は元来、仏教の言葉で、患い多い現世つまり此岸(しがん)を離れて理想境である涅槃(ねはん)の世界に入ることである。だから彼岸は仏教上重要な行事とされてきた。平安時代から寺院では彼岸会(え)が催され、人びとは先祖の霊をまつって墓参する。祖霊が家に戻るのは正月とお盆と「暑さ寒さも彼岸まで」といわれる気候の良い春秋彼岸の、年4回である。
彼岸に欠かせないのは、ぼたもちとおはぎである。練馬では両者の区別にいろいろな説がある。秋につくるのがおはぎで、春はぼたもちとか、あるいは中の御飯をつぶしたのがおはぎで、飯粒のままがぼたもちとかいっている。本当は粒小豆をつけた模様がちょうど萩の花に似ているから萩の餅といい、盆に盛ったところが牡丹の花のようだからぼたん餅というのが一般のようである。つまり名前は異なっていても両方とも同じものをさしているのである。
社日(しゃにち)は春分、秋分の日に最も近い戊(つちのえ)の日、今年の秋は22日にあたる。社は地の神ことで、社日は土地の守護霊である地神(じしん、じのかみ)をまつる日である。春は五穀豊穣を祈り、秋は初穂を供えてその成熟を祝い感謝する。この日は土を一切動かしてはいけない、と畑仕事を休む。むかし中村に地神塔があったそうだが今は見当らない。地神塔をまつらなくとも屋敷神の稲荷様が農の神なので、地神と結びついて社日の崇拝の対象となるところも多い。今年のように社日が中日より前にある年は田畑の作柄がよいという。
9月のこよみ
1日 八朔。二百十日
4・5日 氷川台氷川神社、豊玉氷川神社祭礼
11・12日 北町氷川神社、中村八幡神社祭礼
15日 敬老の日。春日町春日神社、高松八幡神社、高野台氷川神社、下石神井天祖神社祭礼
20日 彼岸の入り
22日 社日
23日 秋分の日
26日 彼岸の明け
28日 西大泉諏訪神社祭礼
(十五夜は10月1日)
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「ねりまの歳事記」(昭和57年7月~昭和58年7月区報連載記事)を再構成したものです。
こよみについても、当時のものを掲載しています。
写真:昭和30年頃の稲刈り風景