現町名37<西大泉 にしおおいずみ>

ねりまの地名今むかし

 旧新座郡小榑(こぐれ)村の一部であった。江戸時代初めは幕府直轄領であったが、元禄16年(1703)、村高の半分730余石を武州久喜藩主米津(よねづ)出羽守に給せられ幕末まで及んだ。
 榑(くれ)は山出しの木材や薪のことで、地名はそうした作業を行った所と解する説が有力である。一方、クレは”呉”に通じ、帰化人に関係あるとする説もある。天平宝字2年(758)、新羅(しらぎ)の帰化僧らを武蔵国に移し新羅郡を置いた(『続日本紀』)。新羅郡はのちに新座郡となった。座はザともクラとも読み、現在も隣接して埼玉県新座市があり、埼玉県和光市に新倉(にいくら)の地名がある。これに対して小榑は「ふるい(古い)クレ」か、というのである。
 明治22年橋戸村と合併して榑橋村と称した。当時流行の合成地名である。現在の杉並区でも井草と荻窪を合併して井荻村とした。両方とも地名はなくなったが、井荻は駅名に、榑橋は公園(大泉町5丁目)の名に生きている。
 榑橋村は明治24年、東京府へ編入、大泉村となり、昭和7年5町に分かれて、ここは西大泉町となった。昭和56年、住居表示が実施され現町名となった。

写真:稲荷神社(西大泉五丁目 昭和31年)

ねりま区報 昭和59年9月21日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。