現町名35<大泉町 おおいずみまち>
ねりまの地名今むかし
江戸時代から明治の中頃まで橋戸村といった。ほとんどが幕府直轄の村ばかりあった練馬区内としては、数少ない私領で、忍者服部半蔵率いる伊賀組の給地であった。その伊賀衆奉納の御手洗(みたらし =水盤 区指定文化財)が氷川神社(大泉町5-15)境内にある。地名の起こりは、村の開発者が八戸あったからとする説もあるが、白子川の地形がつくる「端(は)の瀬戸」と解した方が妥当のようだ。
明治22年、小榑村(こぐれむら)と合併して埼玉県榑橋村(くれはしむら)となり、明治24年、東京府へ編入。大泉村大字橋戸といった。昭和7年、市郡合併で板橋区になったとき、大泉村は東・西・南・北大泉町と大泉学園町の五つに分かれた。旧橋戸村は北大泉町と呼ばれた。昭和22年、練馬区成立後も町名はそのままだったが、55年住居表示が実施され北をとって今の町名になった。北端(きたはし)のイメージをぬぐい去って、町発展の期待がこめられているのだろう。
清水山の森のカタクリ(大泉町1-6 区天然記念物)、八坂神社の富士山(大泉町1-44 =中里の富士塚 区指定文化財)、大泉第一小学校正門脇の御鷹場の碑(大泉町3-16 =尾張殿鷹場碑、区有形文化財)、人頭石(=檀拏幢(だんだとう)、区指定文化財)で有名な教学院(大泉町6-24)など、町内には史跡が多い。
写真:中里の富士塚(八坂神社 昭和31年)
ねりま区報 昭和59年8月1日号 掲載
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。