現町名34<関町東 せきまちひがし>

ねりまの地名今むかし

 昭和60年6月、住居表示が実施された町である。直前まで関町2丁目といった。さかのぼれば昭和7年、むかしの関村は板橋区石神井関町1~3丁目となった。うち1丁目は旧竹下新田の下竹、3丁目は同じく上竹で、2丁目は全部旧関村であった。そんな大きな2丁目であったから、昭和24年、地番整理を行って、2~6丁目に分割した。
 関町は2回にわたって住居表示が実施され、関町北と関町南が生まれた。これにより残された関町2丁目が関町東となったのである。
 関村時代、この辺は本村(ほんむら)、通称を「地蔵裏」といった。青梅街道に建つ有名な「関のかんかん地蔵」(区指定文化財 関町東1-18)の北裏という意味である。このお地蔵さんのことが『新編武蔵風土記稿』に「祈願ヲナスモノ石ニテ打タバカネノ音アルヲモテ、カンカン地蔵ト云」とある。正徳元年(1711)造立だから300年余り石で打たれ、無残に壊れた足元だったが、きれいに修復された。法融寺(ほうゆうじ 関町東1-4)は東京大空襲で被災、戦後浅草から移転した。江戸の戯作者桜田治助や、歌人で書家の会津八一の墓碑や歌碑がある。

現町名34<関町東 せきまちひがし>

写真:関のかんかん地蔵(平成29年)

ねりま区報 昭和60年7月21日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。