現町名32<関町南 せきまちみなみ>
ねりまの地名今むかし
関町南は、昭和59年6月住居表示が実施された町である。旧関町のうち千川通りと青梅街道の南側をいう。
江戸時代は「関村」といった。地名の起こりは戦国時代関所があったとも、石神井川の堰があったからともいう。青梅街道は石灰(いしばい)運搬の道として開かれたが、武州御嶽(みたけ)への参詣みちとしても賑わった。関村はその街道沿いの宿場まちとして栄えた。
天明4年(1784)、竹下忠左衛門という浪人が中心となって、関村の中の林を耕して新田を開拓した。新田は開拓者の名をとって「竹下新田」と呼ばれた。新田は上竹(かみたけ 現 関町北3丁目)と下竹(しもたけ 現 関町南1・2丁目)の2か所あった。明治12年、竹下新田は関村に合併された。明治22年、旧関村を石神井村関甲というのに対して旧竹下新田は関乙といった。
昭和7年、板橋区成立に際して石神井関町となり、旧関村は2丁目、下竹は1丁目、上竹は3丁目となった。相前後して、青梅街道北側では区画整理が進められ、練馬区独立後、関町全体に地番整理が実施された。
江戸時代から続いた竹下新田の地名は橋と公園の名に残った。しかし、乗合馬車が通っていた青梅街道は25m幅に広がり、激しい自動車の流れは同じ村を北と南に二分してしまった。
写真:青梅街道(関町南二丁目 出店橋付近 昭和38年)
ねりま区報 昭和59年8月21日号 掲載
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。