現町名31<立野町 たてのちょう>

ねりまの地名今むかし

 区の最南西にあって、南は武蔵野市吉祥寺に接する。江戸時代は上石神井村立野の飛び地と、関村関原(せきっぱら)という地であった。明治22年に石神井村関甲須崎、昭和7年に板橋区立野町となった。
 むかしはタチノまたはタツノと呼んだ。後撰集藤原忠房の歌「秋霧の立野の駒を引く時は 心にのりて君ぞ恋しき」と詠(うた)われた武蔵国立野の馬牧(うままき)にちなむ地名という(ほかに埼玉県や神奈川県の説も)。昭和59年6月住居表示が実施された。町の北、関町南3・4丁目との境に、区内を東西に貫流する千川上水の唯一の開きょ部が残っている。千川上水は元禄9年(1696)に開発された。初めは江戸の飲料水、後に近郊農村の灌漑用水として、文字通り江戸市民の命の水であった。平成元年、東京都は千川上水の堤を整備し、先人の残した貴重な遺跡として、清流を通して保存した。
 千川上水を東へ、青梅街道を渡り、今の千川上水緑道のはずれに立野橋があった。立野の地名の起こりはこのあたりのようだ。

現町名31<立野町 たてのちょう>

写真:立野橋(昭和38年 千川上水の暗きょ工事完了後)

ねりま区報 昭和59年7月11日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。