現町名30<上石神井 かみしゃくじい>
ねりまの地名今むかし
上石神井村、下石神井村はもとはひとつであった。『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』に「太田新六郎知行十七貫五百文江戸石神井」とある。新六郎は太田資高の子で、母は北条氏綱の娘、当時江戸随一の在地土豪であった。永禄6年(1563)、北条氏康に反抗したが安房に敗走した。『新編武蔵風土記稿』には、その時この辺は闘いの衢(ちまた)となり、田畑、屋敷は荒廃した。のち、徳川家康が江戸入りしたころ、高橋、尾崎、田中、桜井、本橋などという人たちが開墾した、とある。
明治22年、町村制施行で石神井村大字上石神井となり、昭和7年、板橋区成立のとき上石神井1,2丁目となった。2丁目は石神井川の北、現在の石神井台である。1丁目は昔のままの上石神井の地名で、昭和60年6月1日に住居表示が実施され、1~4丁目の新しい街区ができた。
石神井川を北にのぞむ早稲田高等学院(上石神井3-31)は、文明9年(1477)、太田道灌が石神井城を攻めたとき布陣した愛宕山である。愛宕橋の“愛宕”はその名残りである。
智福寺(ちふくじ 上石神井4-9)は昭和40年、港区芝田町から現在地に移った。境内に江戸時代から有名な塩を上げて願いごとをかなえてもらう塩上地蔵がまつられている。
写真:早稲田高等学院(昭和31年)
ねりま区報 昭和60年5月21日号 掲載
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。