現町名24<土支田 どしだ>

ねりまの地名今むかし

 昭和50年、住居表示で土支田1~4丁目となった。それ以前、昭和7年、板橋区のときは練馬土支田町2丁目といった。練馬区が独立して町名から練馬や石神井の冠称をとる際、土支田1丁目は旭町に町名を変更した。1丁目のなくなった2丁目は、ただの土支田町となった。昭和24年のことである。
 土支田は土師田すなわち土師(はじ)器を作る人たちが住んでいた所という説がある。白子川流域には土師器の遺跡が多いし、遠くない貫井からは土師器を焼いた窯場跡が発見されている。また、土支田の支はキと読むのが正しく、斎田(ときた)(神仏に供える田の意)と解する説もある。
 土支田が歴史に現れるのは、永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』で、それに「六貫五百文 江戸土支田源七郎分」とある。源七郎は太田新六郎の家臣で、土支田のほか今の朝霞市にも所領があった。
 江戸時代の土支田村は上下二つの組に分かれ、ここは下組の俵久保、西八丁(町)堀、三丁目といっていた。八丁堀は長さ8丁(約880m)の堀があったからとよくいわれるが、それは文字に惑わされた説のようだ。堀はハリ(治・墾)の当て字で、新墾の地を意味する。原も同じ場合が多い。旧字名八丁原、八丁堀は広さ8町(約8ha、この場合は比喩)の新開地ということらしい。三丁目は「さんじょうめ」と濁っていう。由来は明らかでない。
 土支田八幡宮(土支田4-28)は、むかし、「俵久保の天神さま」といっていた。

現町名24<土支田 どしだ>

写真:農家(土支田2丁目 昭和62年)

ねりま区報 昭和60年6月11日 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。