現町名22<三原台 みはらだい>
昭和46年、住居表示によって、旧北田中町を中心に、東大泉町、土支田町の一部が合併して生まれた。新町名はいくつかの候補名の中から住民アンケートで決められた。町のほぼ中央、泉新小学校(三原台3-18)の東側を南北に田柄用水が流れている。用水は今、暗きょで、1丁目と3丁目の境になっている。そこは、また、旧町の境界でもあった。このあたりに立つと、三方がなだらかな台地になっている。町名の付けられたゆえんである。江戸時代の中ごろ、田中村(今の南田中)から幾人(いくたり)かの人たちが、新天地を求め開墾にやってきた。武蔵野特有の雑木林の台地は、数年後に見事な畑となった。新墾地は田中新田(しんでん)と呼ばれた。新田は本村(ほんそん)に属し、親子のような関係にあった。明治22年、町村制が布(し)かれ、石神井村大字田中の内となった。田中新田が独立の町となるのは、昭和7年、石神井が板橋区になったときからである。田中村の本村は南田中町、新田は北田中町となった。
昭和22年、練馬区が板橋区から独立した。南と北の田中町は、仲良く健在だった。46年、北田中町は新しく三原台と変わった。南田中町は、昔からの地名を捨てきれずに守った。
稲荷神社(三原台1-32)の境内には御嶽社(おんたけしゃ)、浅間社(せんげんしゃ)、富士塚などがあって、新田のころの信仰の様子をうかがわせる。
昭和60年10月に全線が開通した、関越自動車道の起点である練馬インターチェンジは、三原台2丁目にあり、交通の要所となっている。
写真:関越自動車道 練馬IC入口(平成19年)
ねりま区報 昭和60年2月21日号 掲載
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。