現町名20<谷原 やはら>
昭和40年、住居表示が行われた。以前はヤワラといっていたが、住居表示でヤハラと読むことになった。昭和7年、板橋区編入のとき、谷原村から石神井谷原町2丁目へ。練馬区独立後、石神井の冠称をとった。住居表示では旧谷原町2丁目を目白通りで二つに分け、南を高野台、北を谷原とした。北側に谷原小学校があったからである。
目白通りの谷原の円形ガスタンクは、ドライバーにとって格好の目印となっている。そばの交差点を谷原の五差路というが、実は環状8号線につながる補助134号線(笹目通り)が開通して六差路となった。また関越自動車道の基点でもある。
谷原が歴史に初めて見えるのは例の『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』で、「太田新六郎寄子衆、壱貫七百文、石神井谷原在家、岸分」とある。岸という武士は谷原のほか、葛西や田端などの在家(ざいけ)も知行していた。在家とは中世に、寺社の荘園内にあって、その寺社と関係ある名主級の家や耕地のことをいった。谷原に長命寺が創建される以前のことである。
谷原の語源は、阿原(あわら =浸水しやすい低地)のアが、谷地(やち =谷あいの湿地)のヤと混同したものといわれる(柳田国男「地名考説」)。
三軒寺(さんげんでら 谷原6-8)は、関東大震災で全焼したため、そろって築地から移転した真龍寺(しんりゅうじ)、宝林寺(ほうりんじ)、敬覚寺(きょうがくじ)をいう。
写真:谷原のガスタンク(昭和30年)
ねりま区報 昭和60年7月11日号 掲載
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。