現町名19<高野台 たかのだい>

ねりまの地名今むかし

 江戸時代からつづいた谷原(やわら)村は、昭和7年、板橋区になって谷原(やわら)町1、2丁目に分かれた。昭和40年の住居表示で1丁目は今の富士見台に、2丁目はまた二つに分かれて目白通り(放射7号線)の北側が谷原(やはら)、南が高野台となった。
 高野台は長命寺(ちょうめいじ 高野台3-10)の山号による。長命寺は、慶長18年(1613)、北条早雲の玄孫(やしゃご)増島勘解由重明(出家して慶算阿闍梨(けいさんあじゃり))が開いた。境内に紀州高野山を模した奥の院(東京都史跡)があるので、江戸時代から東高野山(ひがしこうややさん)と呼ばれている。本当のフルネームは、谷原(こくげん)山妙楽院長命寺という(現在は山号を東高野山といっている)。
 お寺は音読のコウヤなのに、町名は訓読でタカノと読ませる。住居表示では、同一または類似の町名はできるだけつけないことになっている。その当時、足立区に高野町(こうやちょう)があったからだという。その高野町も昭和49年の住居表示で西新井となって、今はない。
 毎年4月21日は長命寺奥の院で、弘法大師御開帳法会(ごかいちょうほうえ)が行われる。むかしは、前の年嫁入りした新妻が花嫁衣裳で参けいするので花嫁市の名があった。現在は花嫁の姿は見えないが、この日から3日間、稚児行列や植木市でにぎわう。

現町名19<高野台 たかのだい>

写真:長命寺の弘法大師御開帳法会(昭和20年)

ねりま区報 昭和60年4月11日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。