現町名15<向山 こうやま>
ねりまの地名今むかし
昭和40年、住居表示が実施された。昭和7年、板橋区成立のとき「練馬向山町」となり、その後、練馬区独立に際し、ほかの町と同様に冠称がとれて「向山町」となった。
江戸時代は『新編武蔵風土記稿』にある上練馬村の小名(こな)「向山」であった。明治22年、町村制で、「東向山」、「西向山」、「北向山」、「向山ケ谷戸(こうやまがいと)」などに分割された。
今はコウヤマというが、昔からの土地の人はコヤマと短く発音する習慣がある。コウヤマは重箱読みなので地名古来の呼び方ではないかもしれない。石神井川左岸の高台から南を望み、向いの山という意味でムカウヤマと呼んだのであろう。旭町と埼玉県和光市の境に「白子向山(しらこむこうやま)」の地名が現にバス停の名で残っている。
旧豊島園跡地(向山3丁目)の一部は中世関東武士の雄、豊島氏の居城練馬城の跡である。園内にはその欠片(かけら)も見出せないが、南側の外縁、向山庭園(向山3-1)との間に城の堀割の跡などをしのぶことができる。
つづく南の台地は、見事に区画された住宅地である。関東大震災後から昭和初期にかけて造られたいわゆる文化住宅街である。練馬城の南という意味で城南住宅と呼ばれている。人々は組合を組織し、町ぐるみでみどりの保護育成に努め、区との間に「みどりの推進協定」を結んでいる。
写真:向山庭園(平成16年)
ねりま区報 昭和60年7月1日号 掲載
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。