現町名11<光が丘 ひかりがおか>
昭和18年、戦局は日ごとに激しさを増し、陸軍は首都防衛のため、飛行場の建設を急いでいた。白羽の矢は、ここ練馬の一角に当たった。土支田、田柄、高松3か町にまたがる広大な土地である。そこは、まだ町とは名ばかり、田柄たんぼや、練馬大根に謳われた静かで平和な農村であった。多くの農家が立ち退き、肥沃な田畑は成増飛行場と名前を変えた。
東京は丸焼けとなって戦争は終わった。飛行場は"つわものどもが夢の跡"となってしまった。
昭和22年、練馬区が独立した。時を同じくして、飛行場跡に米軍宿舎が建設されることとなり、施設はグラントハイツと呼ばれた。明治12年に来日したこともあるアメリカ合衆国第18代大統領グラント将軍にちなんでの命名である。
それから10年余、施設の内容はだんだん縮小され、遊休化していった。昭和35年頃から土地返還運動が起こった。23区内に残された唯一最大の空閑地である。返還の展望が開けた同44年、区域全体に「光が丘」の町名を住居表示した。緑と太陽のまち練馬を象徴して名付けられた。
昭和48年、区民一丸になっての運動が実り、念願の全面返還が成った。グラントハイツ跡地計画には、住宅建設者から2万3千戸の建設が提案されたが、緑を多く確保するため、練馬区は1万2千戸を提案した。同52年、練馬区案で合意され、平成4年に光が丘団地は完成する。
日比谷公園の約4倍になる光が丘公園は、一部が昭和56年末に開園した。同58年3月、1~7丁目の住居表示が、全街区にわたって実施された。
写真:グラントハイツ跡地利用区民総決起集会(昭和46年 中村西小学校校庭)
ねりま区報 昭和60年2月11日 掲載
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。