現町名4 <氷川台 ひかわだい>

ねりまの地名今むかし

 

 旧下練馬村のうち北を田柄川、南を石神井川で区切り、両川の合流点へ半島状に張り出した台地にある。東は都立城北中央公園内で板橋区に接する。
 昭和32年、公園内の旧立教大学グランドを中心に発掘が行われ、多くの住居跡や遺物が発見された。上板橋村の小字名をとって栗原遺跡と呼ばれ、現在公園内に奈良時代の住居が復元されている。数千年の昔から、ここを生活の舞台とする人々が定住していたのである。
 昭和4年、下練馬村から「練馬町」へ、同7年、板橋区になって「練馬仲町」と呼ばれた。昭和14年頃から現在の平和台地区とともに区画整理事業が進められた。大根と麦畑の台地は、環状と放射状の道路を組み合わせた近代的な町に生まれ変わった。
 昭和40年、住居表示が実施された。鎮守、氷川神社(氷川台4-47)の名から、はじめ氷川町と名付けられたが、板橋区に同じ町名があるので、町をやめて台とつけた。氷川神社では桜の咲く頃、石神井川沿いのお浜井戸までの渡御(とぎょ)※1と田遊びの伝統的な行事が催される※2。荘厳寺(しょうごんじ 氷川台3-14)、光伝寺(こうでんじ 氷川台3-24)も江戸初期からの歴史をもつ。

※1 神輿(みこし)が出ること
※2「神輿渡御の御供道中歌」と「鶴の舞」のこと どちらも区無形民族文化財で、3年に1度行われる。

現町名4 <氷川台 ひかわだい>

写真:栗原遺跡の竪穴住居(昭和50年 都立城北中央公園)

ねりま区報 昭和59年10月1日 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。