完結にあたって
○旧地名について
区内の旧地名を『新編武蔵風土記稿』(小字数75、以下同じ)と東京府公報・郡村誌(310)などから、その分布を調べてみた。ベスト3は久保(33)、原(32)、山・台(31)のつく地名である。いずれも地形地名で、全体の4分の1を占める。久保は小榑村に、山は上練馬村・下練馬村に多い。原は平均的に分布する。
久保は窪地で、そこには必ず湧水があり、集落に近い場所は早い時期に耕地として開けた。
山といっても、いわゆる山岳ではない。住民の生活と深い関わりのある里山(さとやま)のことである。そこではキノコや薪をとり、肥料にする下草を集める。下石神井村の秀月は、俗にショーゲツ山といったと、石神井台の方からお電話をいただいた。やはり池淵の里山である。水に関する地名も多い。淵・池・溜・井・川・雨・沼・沢、それぞれは少ないが、合計で40もある。古代人は、山や川をわれわれ人間と同じ生き物と考えていた。川は、海から山へさかのぼる生き物だったのである。上土支田村井頭は白子川のアタマの井であり、下石神井村和田は石神井川中流の曲がりくねったワタ(腸)なのである。
小榑村に仲置(なかおき)という小字がある。中興(なかこし)の意味で、本村→仲置→新田という村の開拓と、地名の関係を知る好例である。
新田(12)は区の西に、田(22)は東に多い。練馬の難解地名の一つ田柄の語源も「田が原」の転訛(てんか)かもしれない。原は、墾(はり)と同義のことが多い。
『新編武蔵風土記稿』は近世の庄名を松川(練馬)、永井(中村)、牛込(石神井)、広沢(橋戸・小榑)と載せる。土支田村検地帳には垣内(かいと)・堀ノ内・屋敷など中世荘園をうかがわせる地名がある。谷戸・谷(やと・やつ 16)の小字は区の東に多いが、何々ケ谷戸(がいと)の中には、垣内の意味の所もあろう。
区内には旧7か村に検地帳または写しがあり、500を超える小名がみえる。下石神井村に鍛冶屋敷の小名がある。中世石神井城下の集落に鍛冶職人でもいたのであろうか。とすると、伊保ケ谷戸のイボは、鋳物師(いもじ)のイモとも考えられる。
地名は、練馬の歴史に貴重な資料を与えてくれる。千年前の地名も、今なお生き続けているのである。
ねりま区報 昭和61年4月11日号 掲載
○現町名について
区内の地名は、記録に載っているものだけで1千ちかくある。それは、江戸時代以前の『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』、江戸時代はじめの寛永、延宝、寛文の「検地帳」や古文書、文政年間の『新編武蔵風土記稿』、明治14年の「郡村字届書」、同22年町村制施行後の村絵図、郡村誌、東京府公報などである。その中から現町名40と、関連の古地名約80を紹介した。
一方、区内には多くの古代遺跡がある。そこからは石器や土器、そのほか貴重な遺物がたくさん出土している。いずれも当時の人びとが実際に使用した道具類である。考古遺物は貴重な歴史資料であるが、現代生活に使うわけにはいかない。
だが地名はどうだろう。地名のネリマもシャクジイも1千数百年むかし、同じ古代人が命名したと思われる。それらの地名は、現町名はもちろん、橋や公園、バス停に今も生きているのである。地名が土地にしるされた歴史であり、文化遺産といわれるゆえんである。
地名の大半は、江戸時代につけられた。中には「少納言久保」(しょうなごんくぼ 現 大泉学園町5・6丁目)という平安時代の匂いのする優雅な地名や、「栗山大門」(くりやまだいもん 現 練馬1・2丁目)のような戦国時代の城館を想像させる地名もある。地名は、古ければ古いほど語源や由来が分からない。連載中は、同じ地名でも異なる語源説をできるだけ紹介した。それでも多くのご意見やご指摘をいただいた。例えば、小榑(こぐれ)と高句麗(こくり)の類似性、土支田(土師田)と橋戸(土師(はじ)土)の共通点、石神信仰と諏訪信仰の関係等々である。地名の研究は言葉遊びであってはならないが、まじめな意見は大いに戦わしたほうがよい。
住居表示に関する法律の実施で、古い歴史的な地名が消滅したところもある。最近(昭和60年6月)、同法の改正があって、由緒ある地名の保存が見直された。郷土の歴史や自然風土を考えるうえで、地名の果たす役割は大きい。
ねりまの地名は、練馬区民一人ひとりが使用する共有の財産である。地名は由緒ある文化遺産であるという、自覚と責任をもって、大切に保存していきたいものである。
ねりま区報 昭和60年8月1日号 掲載
写真上:石神井風致地区全景(昭和11年)
写真下:かえり道(年不詳)
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。