旧町名14<上板橋村 かみいたばしむら>

ねりまの地名今むかし

現在の旭丘小竹町

旧町名14<上板橋村 かみいたばしむら>

 源頼朝は治承4年(1180)、下総から武蔵に入ったとき、松橋という所に陣をとった(『源平盛衰記』)。この松橋は板橋の誤りとされている。また、頼朝挙兵の報を奥州平泉で聞いた義経も、兄のあとを追って足立郡小川口(こかわぐち 埼玉県川口市)から板橋を経て武蔵府中へ向かった。平安時代末期から板橋は、交通の要地であったのである。
 『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』には板橋や江古田の地名が見える。
 江戸時代はじめに、上板橋村と下板橋村に分かれた。
 『新編武蔵風土記稿』は上板橋村の小名(こな)として小竹、江古田、向原(むかいはら)、小山、毛呂(もろ)、根ノ上(ねのかみ)など11を記す。
 小竹はコタケともヲタケともいう。コもヲも単なる美称であろう。タケは植物の竹と地形的タケの二つが考えられる。
 中世以来、屋敷や構(かまえ)の周辺に竹を植えて遠望を防ぐとともに、敵への守りとした。そのような所にタケのつく地名が多い。小竹遺跡からは江戸初期か、それ以前の大きな建物の遺構が発見されている。竹を巡らした館(やかた)でもあったのであろうか。
 地形のタケは高い所や崖をさす。いわゆる岳(たけ)である。この辺りは起伏の多い所で、台地上に集落が、低地に水田が営まれていた。
 江古田、地名はエゴタ、駅名はエコダ。江戸時代は多摩郡江古田村(中野区)の新田であった。地名の起こりは荏(え)ごまの栽培をしていたからとか、エゴの木が生えていたからといわれる。地形的には谷などの水の流れ込んだ所を方言でエゴという。上板橋村の江古田は本村(ほんむら)の地名を借りたにすぎない。
 小山、毛呂(茂呂とも書く)、根ノ上は合併後、住居表示で小茂根(こもね 板橋区)となった。向原は地下鉄有楽町線の駅名「小竹向原」となっている。
 昭和19年、板橋区に練馬支所ができ、小竹町と江古田町(現旭丘)は練馬支所管内となった。同22年8月、練馬区が板橋区から独立したとき、両町は練馬区になった。

ねりま区報 昭和61年3月21日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。