旧地名11<関村(せきむら)、竹下新田(たけしたしんでん)、上石神井村・立野>

ねりまの地名今むかし

現在の立野町関町南関町北関町東

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旧地名11<関村(せきむら)、竹下新田(たけしたしんでん)、上石神井村・立野>

 関村の由来は江戸時代からの諸書に、豊島氏が石神井に在城のころ、関所を設けたからとある。また、川の堰(せき)との説もある。天明4年(1784)の村絵図は溜(ため)池(今の富士見池)の川下に大堤を図示しており、堰のある様子がうかがわれる。
 『新編武蔵風土記稿』は関村の小名(こな)を大関(おおぜき)、小関(こせき)、本村(ほんむら)、三ツ家新田(みつやしんでん)、関原(せきっぱら)、葛原(くずはら)、小額(こびたい)、札野(ふだの)、二ツ塚(ふたつづか)、鉄砲塚(てっぽうづか)と記す。
 「大関」、「小関」は石神井川の北側、関町北4丁目。大関は川上、小関は川下で、隣の上石神井村の小字、小関と接する。
 「本村」は関町東一帯。村で一番早く開けたところである。近くに「三ツ家新田」がある。文字通り3軒が新家(しんや)に出て開墾した土地である。
 「関原」は現在の立野町。関村の内でも新しく開かれたところで、上石神井村の飛び地、立野と交錯していた。
 「葛原」、「小額」は青梅街道の北に面した現在の関町北1~3丁目にあたる。「葛原」は植物のクズが繁茂していたのであろう。根からクズ粉を作る。「小額」は地形的に山の頂に近い正面をいう。「本村」から見て、台地を登った所にある。
 「札野」とは江戸時代に幕府御用のカヤなどを刈るために高札を立て、立ち入りを禁止した場所をいう。寛文9年(1669)、関村の名主八郎右衛門は自ら開発請負人となり、それまで札野であった所を開拓した。関前新田(現在の武蔵野市)も、その一つである。
 「二ツ塚」は青梅街道の南側。関町南4丁目に不動塚と物見塚という二つの塚があった。不動塚には不動尊がまつられていた。物見塚は関の番所か見張所か。
 「鉄砲塚」のテッポウは真っすぐという意味である。街道に沿った街村式集落に鉄砲町・鉄砲宿などの地名がある。石神井西中学校の所にあって、南北に細長かったという。明治には三つ合わせて「三ツ塚」といった。延宝2年(1674)の『関村検地帳』にも載る。
 「竹下新田」は、もと「関村」のうち幕府の御用林であった。天明4年(1784)、竹下忠左衛門という浪士が願い出て開墾したので、その名が付いた。「下竹(しもたけ 現 関町南1・2丁目)」と、「上竹(かみたけ 現 関町北3丁目)」に分かれていた。
 『新編武蔵風土記稿』は竹下新田の小名(こな)を久保、千川付(せんかわつけ)、前野、淵崎(ふちさき)と記す。下竹のうち、「久保」は隣村上石神井の「久保」に接し、上竹のうち、「淵崎」は富士見池の縁で高台の先端付近をいう。

ねりま区報 昭和61年2月21日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。