旧地名10<上石神井村 かみしゃくじいむら>

ねりまの地名今むかし

現在の石神井台上石神井

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旧地名10<上石神井村 かみしゃくじいむら>

 石神井の地名の由来や古い記録については、石神井町の説明でふれたので略す。しかし、石神井の“井”は“居”で、“石神様が居るところ”と解する説もあることを加えておく。
 『新編武蔵風土記稿』は上石神井村の小名(こな)を城山(しろやま)、観音山(かんのんやま)、大門(だいもん)、沼辺(ぬまべ)、西村(にしむら)、小関(こぜき)、立野(たちの)、池淵(いけぶち)、出店(でだな)と記す。
 「城山」は現在の早稲田大学高等学院(上石神井3丁目)のところである。文明9年(1477)、太田道灌が石神井城の豊島泰経を攻めたとき、戦勝を祈願して愛宕権現(あたごごんげん)を勧請(かんじょう)し、ここに砦を築いた。俗に愛宕山ともいう。東につづいて「観音山」の小字もある。
 地名の「大門」は城廓や大寺の門を指すことが多い。石神井城の追手門とも考えられるが、ここでは三宝寺の門前をいう。
 「沼辺」は石神井台2・3丁目付近。石神井川沿いの低湿地は沼になっていたのであろう。
 沼辺の西を「西村」(石神井台4~6丁目)、「西村」の西を「小関」(石神井台7、8丁目)という。隣接して「関村」の小字、「小関」がある。
 「立野」は村の南、千川上水の北側をいう。現在も上水跡に立野橋の名がある。現在の立野町はここの飛び地で、昔、「立野」の人が行って開墾した地である。立野の由来は『延喜式(えんぎしき)』にいう立野の馬牧(うままき)に擬する説や、館(タチ)に関係する説がある。もっとも館は城館のような規模の大きなものではなく、牧の監視所程度らしい。また「立野」は江戸時代に用木を立てた官有林があったところの地名として各地に残っている。
 「池淵」は三宝寺池の周辺をいう。隣の下石神井村にまたがる。
 「出店」は上石神井1丁目の青梅街道に面したところである。青梅街道が江戸時代中頃になって、武州御嶽詣(みたけもうで)の人で賑わうようになると、その人たちを相手に茶店などができた。『御嶽菅笠』という当時の道中記に「石神井村伊国屋(いこくや)」とあって、二八そば屋の挿絵をのせている。「出店」とは“「本村」から商いに出た店”という意である。

ねりま区報 昭和61年2月11日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。