旧地名8<上土支田村 かみどしだむら>
現在の東大泉、三原台(2、3丁目の一部)、大泉町(2丁目の一部)
※上の町名をクリックすると、その町名のエピソードが読めます。大泉町は2022年2月に更新予定です。
『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』に「江戸土支田、源七郎分」とあることは前に触れた。源七郎は土支田のほか、岱(だい =台村)と根岸(ともに現在の朝霞市)に所領をもつ。ちなみに岱を代山(しろやま)と2字に分けて読み、台東区根岸付近とする説もあるが賛成できない。
『新編武蔵風土記稿』は、土支田村上(かみ)組の小名を井ノ頭(いのかしら)、甫村(ほむら)、下屋敷(しもやしき)、前原(まえはら)と記す。
同書は井ノ頭と“ノ”の字を送るが、地元ではイガシラという。頭は元または始まりのこと。享和4年(1804)、『土支田村明細帳』に「いがしらと申所三反歩程之溜井御座候」とある。白子川の源泉で、今の大泉井頭(いがしら)公園(東大泉7丁目)である。
甫村は大泉学園駅北側の一帯をいう。ホは真秀(まほ)の秀で、土地を称賛する言葉であるとか、ホン(本)村の下略であるとかいわれる。また保村という説もある。保とは律令制の隣保組織で五保のことをいうが、ここはさほど古くはない。鎌倉時代以後、保は行政区域の郡郷庄保というように、郡郷の下にある小さな集落をさすようになった。ここは、中世の保が地名の起こりであるかもしれない。
下屋敷は東大泉2丁目付近をいう。寛文3年(1663)の『土支田村検地帳』に「前原先代官屋敷」と小字名の記載がある。地名の下屋敷はその代官の下屋敷があった所であろうか。また石神井城主豊島泰経の下屋敷という伝説もある。今もバス停に名前が残っている。
前原は東大泉5、6丁目の広大な地域で、甫村の南、つまり前の原という意味である。前原の先、石神井村との境に代官屋敷があった。
明治時代の小字は九つある。甫村の妙延寺付近は中村に、北野神社辺りは宮本と呼ぶようになった。村は同22年、石神井村大字上土支田に、同24年、榑橋村(くれはしむら)と合併、大泉村大字上土支田となった。昭和7年、板橋区東大泉町となる。
ねりま区報 昭和61年1月21日号 掲載
このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。