旧地名6<田中村 たなかむら>

ねりまの地名今むかし

現在の南田中三原台の一部

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旧地名6<田中村 たなかむら>

 日本の名字の8割は地名から生まれたという。ベスト3は鈴木さん、佐藤さん、田中さん。
 一方、全国の郡市町村名のうち1位は“川”のつく地名、2位は“田”のつく地名である。なかでも田中は大字以上の大地名で全国百数十か所、小字以下の小地名を含むと約3千と推定される。
 田中は日本の代表的な名字であり、地名であるといえる。田中の姓はすでに『古事記』に載っている。ここ田中村は室町時代の半ばには、集落を形成していたと思われる。
 『新編武蔵風土記稿』には田中村の小名(こな)を薬師堂(やくしどう)、供養塚(くようづか)、塚越(つかごし)、上久保(かみくぼ)と記載している。
 薬師堂に「昔、堂アリシ所ト云」と注記がある。いま、観蔵院(かんぞういん 南田中4-15)に通称日出(ひので)薬師と呼ぶお堂がある。十二神将を配した薬師像がまつられる。この薬師様、以前は現在地よりもっと東方に在って、そこが地名の起こりとなった薬師堂の旧地であるという。『新編武蔵風土記稿』のできた文政年間には、すでに移っていた。
 十善戒寺(じゅうぜんかいじ 南田中5-19)付近を明治に入って本村と称した。田中村でも早く開けたところだからである。そこには昭和の初めまで、福徳元年(1490)という珍しい私年号の月待供養板碑(つきまちくよういたび)をまつる祠(ほこら)があった。江戸時代に供養塚といったのはこの辺りであろう。
 本村の東を塚越という。供養塚を越えたとところという意である。塚越の南を上久保という。
 享保・元文(18世紀初め)のころ谷原村の北に飛地で、田中村の新田が開墾された。今の三原台の一部である。
 明治22年、石神井村大字田中と呼ばれ、小字は新田分を含め13あった。新田に韮久保(にらくぼ)という地名がある。植物のニラか、当て字か明らかでない。
 昭和7年、板橋区成立で田中村は石神井南田中町に、新田は同北田中町と別々の町になった。三原台1丁目の稲荷神社を土地の人は「北田中の稲荷」という。住居表示で今は谷原5丁目となった「田中山憩いの森」も元は北田中であった。

ねりま区報 昭和60年12月21日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。