長源寺あとと地蔵様
開進第一中学校の西南に今は駒込に越してしまったが、長源寺という浄土真宗の寺があった。この寺が何故駒込の方へ越すようになったかについて、つぎのような話がある。
五代将軍綱吉公がまだ将軍になる前に脚気をわずらい下練馬村金乗院近くに御殿を建てて療養したことがある。その頃金乗院の住職は、毎日綱吉公の話相手をさせられた。この話の中で住職は「練馬にある寺を全部、真言宗にして下さい」とお願いした。綱吉が「よかろう」といったのでそれから後、練馬の全部の寺は真言宗に改めさせられた。もしそれにそむく寺があるときは、村から追放された。それで、下練馬村のすべての寺は金乗院の下寺となったが、改宗しなかった長源寺は他へ越すことになったというのである。
当時、この地方では、男が死ぬと男寺で葬式を行なう習わしとなっていた。長源寺は男寺であったため駒込に越してから後も、男の葬儀を行なうため、檀家の村人たちが通ったという。この習慣は戦時中まで続けられたというが、空襲が激しくなると、往き来も大変となったのか、全部練馬の寺で行うようになった。
長源寺の角地に、一つの地蔵さまが立っていた。あたりの人は、この地蔵さまを「やいむ様」の地蔵さんと呼んでいる。このやいむ様にまつわるつぎのような話がある。
ある寒い夜、みすぼらしい身なりの旅僧が托鉢にやってきた。貧しい農村では食べものを施すこともできない程であったが、下練馬村で「やいむ様」と呼ばれていた名主の島野弥右衛門が旅の僧をやさしくねぎらい食べものを差上げた。旅の僧は感激して「ここから見える所一帯をあなたの土地にしてあげよう」と南の方を指さしていたが、いつの間にか姿が見えなくなってしまった。余りの不思議さにみんなは弘法大師の化身であろうと言いあった。
その旅の僧の予告どおり、やいむ様の家はどんどん繫栄し、南方の見えるところ一帯をみんな自分の土地にすることができた。そこで有難く思った名主が地蔵さまを刻み、南にむけて建てたという。遠くまで見えるように台座を高くしたので見上げる程の地蔵さまとなった。
やがて、時代がすぎ区画整理が行なわれ、道路の様子は変わってしまった。
一時、地蔵さまも台座だけになってしまったが、現在は松の根元につつましく立っている。(※)
なお、現在の正久保橋は、弥右エ門橋といわれ、やいむ様がつくった木の橋であったが、それを光伝寺の十八教海が、日本橋から、六兵衛、八兵衛という石工をつれてきて、石橋にかけかえさせたという。
※現在は、錦1丁目の円明院門前に移されている
昭和53年11月21日号区報
写真:やいむ様の地蔵(平成19年 円明院門前 錦1-19-25)