三宝寺と氷川神社

ねりまの伝説

三宝寺と氷川神社

 亀頂山密乗院三宝寺は応永元年(1394)鎌倉大楽寺の幸尊法印により石神井郷小中原の地、霊亀状の丘陵の背につくられたものと言われる。この地は石神井城の東、禅定院に近い地点であろうと言われ、カメの池の西にあったという地下穴もこの寺と何か関係があろうか、又この辺から三宝寺の方に向って長い地下道があるという話も伝わっており、城の構造上か宗教の遺構なのか確認の必要があろう。

 文明9年(1477)豊島氏滅亡後、太田道灌は三宝寺を石神井城の跡にうつし、この地の鎮護と名族豊島氏の霊を弔った。以後北条氏、徳川将軍の帰依もあり、天正19年(1591)十石の御朱印をうけ、寛永2年(1625)、正保元年(1644)には三代家光の御鷹狩の休息所となった。
 石神井城の西の丸とも言うべき要地に鎮座する氷川神社は応永年間(1394~1428)、豊島氏が武蔵一の宮の大宮氷川神社の分霊を祭ったのに始まると言う。落城後は石神井郷五ヶ村の鎮守として崇敬があつかった。
 三宝寺の伝説には、火消稲荷、つげの木稲荷、などがある。

(一) 火消稲荷(火伏稲荷)

 三宝寺境内の北西隅、石神井城址の土囲と思われる上に、小さな稲荷の祠があって、これを火消稲荷と呼んでいる。むかし、三宝寺の住職が修法をしていると、老狐が出てきて、しきりに叫びながら寺の周囲を三回、四回と走りまわった。何か事ありげなその様子を見た人々は、皆不思議に思ったが、その吉凶を判じかねたので、一重に神慮に祈った。その夜のことである。寺に火災が起きたが、誰もが何事かあると、気を配っていたので、たちまち消すことができて、大事に至らなかった。そこで、人々は、前日の老狐の不思議な行動は、この災厄を予め知らせたものと思い当った。これから、この小祠を火消稲荷というようになり、一層信仰を高めた。この稲荷の神体は、妙石で、里人の口碑では、そのむかし、一本の石であったが、中央から折れたので、その頭部がこの祠の神体となり、下部は、下石神井北原の石神井神社に祀られているという。

(二) つげの木稲荷

 豊島方の戦死者を合葬した塚の上につげの木を植え稲荷の小祠をまつったのだという。今は小祠もなくつり堀(※)の東北60m位の所に一本松をつげの木がとり囲んでいるだけである。

※現在(令和2年9月)釣り堀はなく、三宝寺池水辺観察園となっている。

 

昭和53年10月21日号区報

写真:三宝寺(平成29年9月 石神井台1-15-6)
   *三宝寺の梵鐘は区指定文化財、山門は区登録有形文化財