力持惣兵衛
大泉学園町2353番地(現 大泉学園町2-27)の道端に、天保11年の馬頭観世音が立っている。他の石塔と違って丸い大きな自然石に馬頭観世音の文字が彫りつけてある珍らしいもので、何かいわくがありそうな石塔である。
土地の人は、これを力持惣兵衛の馬頭観音と呼び、石に彫りつけた文字によっても加藤惣兵衛という人が愛馬の供養のために建てたものということが想像できる。
天保の頃、小榑(こぐれ)村の百姓惣兵衛はいつものように馬をひいて、江戸牛込の武家屋敷へ下肥をとりに行った。
漸く盛んになってきた畑作の肥料として、下肥は大切な肥料であったので野菜などをつんで江戸に売りに行き、その帰りに定めてある屋敷や商家から下肥を汲んで来るのである。
惣兵衛がきたのを知った屋敷の主人は、早速、この男の大力ぶりを見たいと思ったので、庭の中に呼び入れて「その大石を差し上げてみよ。もし、上げたらその大石をほうびにとらせよう」と大きな庭石を指さした。
日頃、力自慢でとおっている惣兵衛は、もろ肌ぬぎになって満身の力をこめ何十貫ものその大石を見事にさし上げた。主人は、その力にびっくりして約束通り大石を与え、なにがしかの鳥目(ちょうもく)も与えた。
惣兵衛は大いに面目をほどこしてその大石を馬の背につけ、意気揚々と大泉まで帰ってきた。
四里(16㎞)近くの道のり、しかもいくつもの大坂、小坂を越えて老馬は大石を背負って小榑にたどりついたが、とうとう惣兵衛の自宅近くで力つき、がくっと前脚を折ってしまった。
石の重みに押しつぶされ、とうとう起き上がることができなかった。
思いもかけない愛馬の最後に、今までの喜びから一気に地獄に落ちたような思いで、今さら大力を誇ったことが悔やまれてならなかった。
この愛馬の冥福を祈るべくその大石をそのまま供養塔としてたてたのが、この馬頭観世音であるという話しである。
いやいや本当の惣兵衛の力石は供養のため寺に奉納されたもので、いま妙福寺の境内にある38貫メと刻んだ石がそれにあたると伝える人もあり、又力自慢をしたのは惣兵衛の下男で、その下男が意気揚々と大石を馬の背にのせて帰ってきたので、惣兵衛がその無茶ぶりを叱り、やにわに石の綱を切ったものだから、重心を失って倒れた馬の上に石が落ち馬が死んでしまったので、惣兵衛は自分の短気を後悔、改心したという話しも残されている。
馬と人間、家族の一員として大切にされた頃の一つの教訓である。
昭和53年5月11日号区報
写真:馬頭観音(力石 大泉学園町2-27)
*力持ち惣兵衛の馬頭観音は、区登録有形民俗文化財