練馬大根

ねりまの伝説

 かつて、練馬の名物といえば、すぐに大根を思いおこすほど、大根は練馬の代表産物であった。この大根がどうしてこの地の名物になったのであろうか。それには、つぎのような話がある。

 徳川五代将軍綱吉、といっても延宝5年(1677)の話というから、まだ将軍にならぬ以前のことである。綱吉は脚気にかかってしまった。いろいろ治療に手をつくしたが、病状は、はかばかしくなかった。そこで、陰陽師に占をたてさせると、その名の右馬頭に因んで、馬という字のつく所へ出養生すればよいという。早速、江戸の付近で、馬のつく土地をさがした。中でも豊嶋郡の練馬が、方角もいいということになり、さっそく練馬村に御殿を建てた。昔から、脚気は、はだしで土を踏めばなおるといわれているが、田舎にきて自然の土を踏むようになったせいか、綱吉の病気もおいおいよくなった。そこで、たいくつしのぎに、尾張から大根の種子をとり寄せ、近所の百姓大木金兵衛に作らせてみた。ところが、地味が適していたのであろう、その秋になると、すばらしい大根ができ、味もまたすこぶるよかった。延宝8年になって病気は全くなおって帰城し、その年、五代将軍となった。

 その後も村民に大根の栽培を命じて献上をさせた。こういうことがあって、村民もだんだん大根を作るようになり、やがて日本一の大根村として名声を博すようになった。
 これが、練馬名物大根の由来であるが、この事は、幕府の記録にも地誌にも出ていない。全く事物起源伝説の一種である。従って、綱吉のいた御殿址という所が、旧下練馬村の北部、本村の近くにあり練馬大根発祥の地は、その北につづく桜台というところだと伝えている。

 

 一方、上練馬村愛染院入口には、将軍綱吉が、宮重大根の種子を尾張からとりよせて、百姓又六に作らせ、寛文中(1661~1673)に綱吉が、再び練馬にきたことが史書にあることを記した練馬大根の碑がある。これは、大橋方長の「武蔵演路」に書いてあることを中心としたのであるが、昭和15年11月、皇妃2600年の記念事業として練馬漬物組合員一同が、沢庵石を持ちより、その上に立てたものである。
 又六については、ここから400mほど東にある一里塚の近くに一基の庚申塔があり享保二丁酉年(1717)霜月十日、講親、鹿島又六と記され「武蔵演路」の記述を証明することができるが、寛文年中に又六がいたかどうかはわからない。

昭和53年4月11日号区報

写真上:徳川綱吉御殿跡の碑(北町1-14)
写真下:練馬大根碑(春日町4-16)